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『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』長田紀生監督インタビュー

長田紀生監督写真 1975年4月30日まで10数年にわたって続いたベトナム戦争。その終結の直前まで、戦時下の南ベトナムで1本の日本映画の撮影がおこなわれていました。脚本家として『日本暴力団・組長』『修羅雪姫』などを手がけていた長田紀生監督が初めてメガホンをとった『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』です。
 テレビドラマ「ザ・ガードマン」などで人気を博していた川津祐介さんを主演に迎えたこの作品は、戦時下の南ベトナムを舞台に、殺人を犯してしまった日本人商社マンのベトナム脱出劇がハードなタッチで描かれていきます。
 ベトナムでの長期ロケを終え日本でのポストプロダクションに入った『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』は、しかし諸般の事情から完成を間近にしながら公開を迎えることなく、幻の作品として眠り続けることになります。
 その『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』が30数年を経て完成し、2014年ついに劇場公開を迎えます。この作品が生まれた背景と、その後たどることになる数奇な運命、そしていまこの作品を公開する意味とは? 長田監督にお話をうかがいました。

長田紀生(おさだ・のりお)監督プロフィール

1942年生まれ、中国北京出身。1965年に早稲田大学卒業後、東映の専属脚本家となる。1970年以降はフリーとして多くの脚本を執筆するほか、監督、プロデュース、ドキュメンタリーの構成、作詞など幅広く活躍する。
脚本作に『地獄の掟に明日はない』(1966年/降旗康男監督)『博徒解散式』(1968年/深作欣二監督)『軍旗はためく下に』(1972年/深作欣二監督)『修羅雪姫』(1973年/藤田敏八監督)『犬神家の一族』(1976年・2006年再映画化/市川崑監督)『夜汽車』(1987年/山下耕作監督)など多数。監督作にテレビドキュメンタリーシリーズ「のびる子教室」(1970年・TVK)、短編作品『女の生きがい』

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』が生まれた時代

「あの当時、ベトナム戦争というのはいまの人たちには及びもつかないほど世界的に大きなマターで、ベトナム戦争の影響によって起きてきた反戦運動を中心としたさまざまな反体制運動というのを若者たちが世界中で展開していたころなんです。アメリカにおいては黒人差別撤廃運動、いわゆる公民権運動であるとか、政治的なものだけではなくて、たとえば映画でいえば『イージー・ライダー』(1969年・米/デニス・ホッパー監督)とか『俺たちに明日はない』(1967年・米/アーサー・ペン監督)という、いわゆるアメリカン・ニューシネマが出てきたころで、それらの映画というのは、いわゆるヒッピー文化を背景としていたんです。そのヒッピー文化というのは、ロックでありマリファナであり長髪にバンダナを巻いた風俗であり、そういうかたちで世界中にひじょうに大きなベトナム戦争の影響がありました。そして、日本においてもベトナム反戦運動というのはひじょうに盛んで、特に1968年のテト攻勢と呼ばれるアメリカ軍とベトナム軍の兵士含めて5万人以上が戦死したというすさまじい戦闘があって、そのあと一挙に反戦の動きが高まったんです。既成の政党や学生たちが過激な反戦運動をやるだけではなくて、作家の小田実さんたちが中心となったベ平連=“ベトナムに平和を!市民連合”というのができて、市民レベルでベトナム反戦運動が起きてきたりしたんです。はっきり言えば、あのころはアメリカという超大国があって、その超大国がベトナムという小さな国を思いどおりにしようとしたときにベトナムが反抗していったという意味合いからも人々はアメリカを非難していて、それが反戦運動になっていき、ベトナム戦争というのはものすごく批判を浴びたんです」

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』が製作された時代をこう表現する長田監督。そして、世界的に反戦の機運が高まる中、当時の日本人は“ジレンマ”を抱えていたといいます。

「当時のテレビでは、毎日のニュースでまっ先にベトナム戦争のニュースがありました。そこで流れる映像がなにかといえば、ベトナムのお坊さんが抗議のために焼身自殺するのが相次いでそれが流れたり、あるいは秘密警察の長官がベトコン、つまり南ベトナム民族解放戦線の容疑者をサイゴンの路上でバーンと撃ち殺したり、いま考えたらすさまじい映像が毎日のように世界中のテレビで流れていたんです。だから一般の日本人は“ベトナム戦争なんか早くやめてしまえ、アメリカは間違っている”と思っていたにもかかわらず、日本政府は――もちろん当時は自民党政権だったけれども――どうだったかと言えば、やはりアメリカに追随してアメリカの戦略を支持することから一歩も出ることはなかった。それだけではなくて、アメリカの戦争に深く協力をしていたんです。当時、アメリカの爆撃機がハノイを中心とした北ベトナムにすさまじい爆撃をおこなって多くの市民が死んだわけだけど、その北爆と言われる爆撃の飛行機がどこから飛び立っていったかといえば、沖縄の基地だったんです。つまり、日本人は市民レベルでは反戦運動をするのだけれど、政府レベルではその戦争を支持しているという矛盾を抱えていたわけです。それだけではなくて、当時の日本は高度経済成長のまっただ中にあって、その高度経済成長がなにによってもたらされたかといえば、ベトナム戦争が日本の経済をどんどん後押ししてくれていた。当時の日本人というのは、ベトナム戦争に対してそういうジレンマを持っていたんです」

 長田監督は20代から東映で専属脚本家として活動し、深作欣二監督がメガホンをとった『博徒解散式』(1968年)など、多くのヤクザ映画を手がけていました。1960年代の終わりから70年代はじめにかけてヤクザ映画は学生たちから支持を受けており「当時の学生たちの反権力の考え方というものとヤクザ映画というものが、どこかでコミットするものがあった」と監督はいいます。
 そして1974年、フリーの脚本家として活躍していた監督に、あるプロデューサーからベトナムを舞台にした娯楽映画の脚本執筆の依頼がありました。

長田紀生監督写真

当時の写真や資料を前に撮影時を振り返る長田監督

「“ベトナムを舞台にアクション映画が作りたい。お前はアクション映画のシナリオをたくさん書いてきたライターだから、そのシナリオを書いてほしい”というオーダーが来たわけです。それで、ぼくはシナリオライターではあったけど同時に現場をやりたい、つまり監督をやりたいという気持ちが強くあったので“俺に撮らせてくれるなら書きましょう”と答えたわけです。そしたら、それが意外とすんなりと受け入れられたんです。そのプロデューサーはプロの映画プロデューサーではなくて、若いころにちょっと映画とコミットしていたけど、そのあと別の事業で成功して、その事業でベトナムと深いつながりができたということだったんです。当時のベトナムの政府高官や軍部ともつながりができたから“いま、ベトナムで映画を撮るなんて世界中のどの映画人もできないけど、俺だったらできる”と彼は考えて、ベトナムを舞台に娯楽映画を撮ろうとしたわけですね」

 その依頼を受けた監督は、当時の時代背景の中で「ライターとして監督として、なにができるか」を考えたといいます。そして監督が描こうとしたのが“日本人のジレンマ”でした。

「さっき話した日本人のジレンマがある中で、いわゆる反戦映画なんかは我々には作る資格がないと。それから、教科書に載るような平和をアピールする映画も作れないと。だったら、俺がいままでやってきた娯楽映画を作るしかないだろう。ただ、娯楽映画でもただの娯楽映画ではなくて、日本人のジレンマ、当時ぼくはそれを“不条理”という言葉で呼んでいたけれども、その“不条理”を前提とした娯楽映画を作ろうと。乱暴な言い方をすれば、我々日本人はベトナム戦争に関して、ひじょうに醜いのではないのか。一方で戦争反対を叫んでええ格好をしてみたり、一方で戦争に協力して大儲けしてみたり、そういう“醜い日本人”ということだけは必ず描きたいというのが、ぼくのモチベーションとしてあったと思う。だから、心がけたことはそのふたつ。なまじの反戦映画や平和を訴える映画なんかは作らない、あくまで娯楽映画で行く。でも、その娯楽映画には日本人に対するメッセージを込めたい。それだったらできるんじゃないかというふうに思ったんです」

 こうしてスタートした『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』。戦争まっただ中のベトナムで長期のロケをおこなうという大胆な計画に対して、恐怖や躊躇が「なかったということはない」と監督は言います。

「それは、ぼくも含めて全スタッフ、全キャストがそうだったと思います。実際に主役の川津祐介さんなんかはベトナムに行くときに日本に遺書を残してきたそうですから。ただ、当時の映画人の気質というのは、いまの映画人の気質とはまったく違っていたんだと思う。当時は映画人なんて言わずに、我々は自分たちのことを“カツドウ屋”と言ってたんです。それで、誤解されるかもしれないけど“カツドウ屋なんてしょせんヤクザな商売だ”と。“毎日満員電車に揺られて会社に行って帰ってくる人たちと我々は違う。その代わり1本1本の映画に命を懸けて作るべきだろう”という想いは、口にこそ出さなくても当時のカツドウ屋にはみんなあったと思います。それと、そのカツドウ屋の血が騒ぐというか、そういう騒乱の地に出かけていくということは危険もあるし恐怖もあるけど、同時にものすごく強い好奇心をそそられるんです。そのどちらが勝つかと言ったら好奇心だったんです。“ベトナムに行って映画を1本撮る。おもろいやないか、それは”という気持ちが強かったと思う。そのちょっと前になるけど、さっき話した小田実さんが書いたベストセラーのタイトルが『何でも見てやろう』(1961年刊行)ですよ。それから当時、蔵原惟繕さんが監督して、石原裕次郎と浅丘ルリ子で撮ってヒットした映画が『何か面白いことないか』(1963年)ですよ。つまりそのころは“なんでも見てやろう、なにかおもろいことないか”という意識があって、その意識のほうが危険に対する恐れよりずっと強かったんだと思う。そのカツドウ屋の気質というのは我々スタッフだけではなくて役者もみんな持っていたものだと思います。当時の俳優さんは、シナリオが面白くてやる価値があると思えばそれが優先したと思います。川津さんもそうだったと思います」

つねに危険があったベトナムでの撮影と帰還、そして帰国後の「どんでん返し」

 スタッフ・キャストは1974年12月にベトナムへと入り、翌75年1月にクランクイン。4月まで続いた長期間のベトナムロケは、やはり危険と隣り合わせのものでした。

「まずロケハンの段階で、カメラマンの椎塚彰が500mmの望遠を構えていたら、いきなり威嚇射撃でズダダダンと足元にM16ライフルの銃弾を撃ち込まれました。それは500mmの長尺のレンズが銃火器と見間違われたんだろうということですね。威嚇射撃を受けたことは2、3回ありました。それと、もうサイゴンに着いた日から夜になるとドーンドーンとロケット砲が響いている。ときにはそのロケット砲がごく近くで、朝になったら“おいおい、あそこのビルなくなっちゃったぜ”と(笑)。だから我々の泊まっているホテルにだっていつロケット砲が飛んでくるかわからない。それからサイゴンの街中では、兵士や警察による、いわゆるベトコン狩りですね。解放戦線容疑者を街角で追い詰めて逮捕したり撃ったりということも我々は何度か目撃しました。撮影に際しても、たとえばフエというところに5日間くらい滞在して後半の撮影をしたわけですけど、撮影が終わって我々が引き上げた2日後にフエの街は北からの攻撃を受けて陥落しました。ぼくたちの泊まっていたホテルはロケット砲で全滅。ぼくたちの世話を焼いてくれた人なつっこい顔をしたホテルの親父はそのときに死んじゃいました。それからダナンという政府軍最大の要塞のあるところで撮影したときも、撮影が終わったやっぱり2、3日後にそこが陥落した。だから我々が当時よく冗談で言っていたのは、ベトコンと北はどっか山の上から我々の撮影を双眼鏡で見ていて“あれが終わるまでちょっと待ってやろう”と、我々の撮影が終わったのを見計らって攻撃してるんじゃないかって(笑)。それくらいのことを言いあったくらい、スレスレのところで切り抜けてきたということは何回もありました」

 映画では、街中を行く軍用車両や兵士たちの姿も収められていますが、それらはもちろん映画のために用意されたものではなく、実際に撮影隊が現地で遭遇した本物の車両や兵士です。

「ああいうのはちゃんと撮影プランがあって撮影したわけではなくて、車で走っているときに“おお、来た、回せ!”と言って、急遽カメラを回したものが多いです。本来はああいうものは撮影が許可にならないんですよ。それが撮影できたのは、ひとつは我々は車の中から隠し撮りのようなかたちで撮っていたというのと、もうあのころは政府軍はボロボロに負けつつあったときですから、我々が撮影していることに気づいても、いちいち構っていられないという状況だったんだと思いますね」

 ベトナムでの撮影を終え、4月の半ばにスタッフ・キャストは帰国を果たしポストプロダクション作業が始まりますが、戦地での撮影という体験は、監督をはじめスタッフ・キャストの心理面に影響を残していました。

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』スチール

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』には実際の軍用車両や兵士の姿も収められている

「帰ってきた当座は、仕上げの仕事をしていてもなんか落ち着かないんです。つまり、我々はスタッフ、役者も含めて、ベトナムという当時の極限状況の中にあったわけです。そこで3ヶ月生活しているとね、命からがら日本に帰ってきたけども、当初の1ヶ月ほどは日本のこの平和でなんともバカバカしい日常に慣れることができないんですよ。だから、その意味でも毎日編集室にこもりっきりだったんです。編集室を一歩出るとね、昨日まで自分がいた緊迫感にあふれた極限状況とはまったく別の、よく言えば平和な日常、悪く言えばダルな日常があって、自分たちの心のリアリティはどこにあるかと言ったら、まだベトナムにありましたね。だから、みんな日本にすごい違和感を持っていた。それは川津祐介さんもそうでしょうし、ほかの役者さんも、スタッフたちも、日本に慣れないんですよ。すごい違和感を感じながら仕上げ作業をやっていたということだと思います」

 そういう状況の中でも編集やダビングといったポストプロダクションの作業は順調に進み『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』は、帰国から約1ヶ月半後の6月にはゼロ号試写まで進みました。しかし、ここで監督が「どんでん返し」と表現する予想外の事態が生じることとなります。

「オーナー・プロデューサー、つまりお金を出した人が、ゼロ号試写に近いものを観て気に入らなかったんです。ぼくはシナリオを読んだらわかるだろうと思うんだけど、彼がシナリオから受けていたイメージ以上に映画の主人公が“醜い日本人”だった。あまりにも卑怯、あるいは弱いと言ったらいいかな。つまりヒーローではなかった。彼はそれが気に入らなかったんだと思います。それで、そこを少し直してくれという話がありました。そこでぼくと彼との間で対立があって、結局、その対立が抜き差しならないところまで行って、彼が“それならこれはもう誰にも触らせない”というところまで行ってしまったんです。それから、どこで公開するかの交渉も彼を中心にぼくも含めてやっていて、ほぼ決まりかけたこともあったのですが、単純に言うとお金ですね。メジャー会社に積まなくてはいけない保証金が我々にしてみればあまりにも高額だったんです。もう、ポストプロダクションをやり、配給会社に充分な保証金を積むだけのお金がオーナー・プロデューサーの手元にはなかったんです。それはなぜかと言うと、ベトナムに行って撮れるものと撮れないものがあるんです。でも、どうしてもそれを撮りたいと監督が言ったときに制作部はがんばって撮らせようとする。そのときにものを言うのは残念ながら賄賂なんです。ベトナムの軍当局や政府関係者に払う賄賂。そんな賄賂は領収書はもらえないし、帳簿に付けるわけにもいかない(笑)。そういう目に見えないお金がどんどん出ていって、当初予算は当時のお金で2500万円だったんですが、それをオーバーして3000万は優にかかったと思います。いまのお金で言うと1億を越えています。当時は“一千万映画”と呼ばれる小さい規模で公開される映画もあったんですが、それだけの金をかけて作ったのだからそんな規模の公開ではとても回収できないというオーナー・プロデューサーの想いもあったでしょう。だから、中断した理由は3つです。ひとつは、当時邦画の公開を支配していた五社体制の中にうまく入っていけなかったということ。それから、映画の内容を巡るぼくとオーナー・プロデューサーとの対立。そして、お金。この3点が、この映画を公開にまで持っていけなかった理由だと思います」

 最終的に『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』は、完成を目前にしてポストプロダクション作業は中断し、劇場公開されることはありませんでした。そのときの心境を「思い出して話しても、どうも“いまになって言っているだけ”のことのような気はするのだけど」と前置きした上で、監督は次のように語ります。

「一般公開はできなかったけど、どこか自分の中で“あの仕事はもう終わった”と言い聞かせていたんだと思うんですよ。同時に、戦争で毎日毎日何千人という人が死んでいるところに日本のカツドウ屋が出かけて行って娯楽映画を撮るなんてことは、どこかで忸怩たる想いがあったんですよね。俗っぽく言えば“バチが当たるぞ俺たちは”という想いはどっかであったんだと思う。だから、バチが当たってこの映画はできなかったのかと。“結局これがこの映画の落とし前なのかな”という想いが強かったと思いますね」

発見されたフィルム、37年を経ての完成

 こうして、作品の存在は知られつつも鑑賞することはできない“幻の作品”となってしまった『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』。その作品が30数年を経て完成、公開に至るには、ひとりの映画ファンと、長田監督と共同脚本も数多く手がけた脚本家・神波史男さんの存在がありました。

「その映画ファンの方とは最初は直接の面識はなかったんですけど、何回か“『ナンバーテンブルース』という映画はいまどうなっているのでしょう? あの映画をなんとか観たいんです”というような手紙をくれていたんです。同時にその方は都内や地方で映画会を主催するグループの一員でもあって、いろいろな監督を呼んで作品を上映したあとに監督のトークショーや監督とのQ&Aをやるような会をやっていたんです。ぼくの友達で神波史男というライターや、小谷承靖という映画監督、それからもう何人かその会に呼ばれた人がいましてね。彼らが電話をかけてきて“主催の人が、長田の『ナンバーテンブルース』を観たいと言ってたぞ”と言われることが何回かあって、もう20年くらいそういう状態が続いていたんです(笑)。それから、関西の大学の学園祭の実行委員から電話がかかってきたこともあって、学園祭が“アジアと日本”というテーマらしくて、『ナンバーテンブルース』のことを知って学園祭で上映できないかという問い合わせがあったりしたんですよ。それで、一度はフィルムを見つけようとはしたと思います。ただ、先ほど話したオーナー・プロデューサーに連絡を取ろうとしたのですが、彼がもう会社を畳んでいたものですから連絡が取れなかったんですね。それと、さっきお話したように“俺の中ではもうこの仕事は終わった”という想いがあって、それほど熱心に探しはしなかったんです。それが、一昨年(2012年)、さっきも名前を出した、ぼくのひじょうに親しい友人でシナリオライターの神波史男が亡くなりまして、そのお別れの会というのを映画人でやったんです。そのお別れの会の席上で、それまで手紙しか受け取っていなかったその映画ファンの方とお会いして、彼が“神波さんにもお願いしていたんだけど、私たちは『ナンバーテンブルース』という映画をぜひ観たいんです”というお話を熱心にしてくれたんですね。神波史男のお別れの会でそういう話を聞くと“そこまで言ってくださるのだったら”と思って、もう1回フィルムを探すことをお約束したんです」

 フィルム探索のスタートとなったのは、当時使っていた現像所である東京現像所。フィルムが残ってはいないだろうと思いつつ、まず振り出しにと問い合わせたところ、フィルムはなかったものの、デジタル化されていた古いデータからオーナー・プロデューサーの連絡先が判明し、同時にオーナー・プロデューサーがすでに逝去されていたことも判明します。さらに、映画フィルムの収集・保存をおこなっている国立近代美術館フィルムセンターにフィルムが保管されているらしいという情報が得られました。

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』スチール

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』より。日本人商社マンの杉本はベトナム脱出のため恋人のラン、混血児のタローとともに戦地を走る……

「フィルムセンターに電話をかけて“こういう者だけど、この映画のことを調べているんだ”と訊いたら“ちょっと待ってください”と。どうも電話の横でパソコンで検索していたみたいで“ああ『ナンバーテンブルース』、うちの保管庫にありますよ”って。“ええっ!”ってなりましてね(笑)。それで、なにが保管されているかのデータをメールで送ってくれるということで送ってもらったら、プリントが1本と音ネガという音を入れたネガが1本あるということがわかったんです。そのプリントというのはゼロ号試写で使った、完成ではないけれど一番仕上がりに近い90%までは行っていたというものでした。“じゃあ、それを観てみよう”ということで、関係者を集めてフィルムセンターの中で試写をしたわけなんです。そしたら、もうボロボロでした。音もメチャメチャ。とてもじゃないけど使える状態ではない。だけど、幸い音ネガが残っていたので、その音ネガを取り出してね。取り出すと言ってもけっこう大変なんですよ(笑)。フィルムというのは摂氏6度で保管するのが一番いいらしいんです。だから相模原にあるフィルムセンターの分館では摂氏6度で保管しているんですよ。ちょうど夏のはじめでしたし、急に取り出してくるとフィルムがまた劣化しちゃうので、保管庫からフィルムを取り出してくるだけで1週間くらいかかるんです。で、1週間待って、取り出してきた音ネガをIMAGICAに持ち込んでチェックしてもらったら、かなりネガも傷んでるということだったんです。“何本もプリントを焼くのは無理ですが丁寧に仕事をすれば1本くらいはプリントがとれると思う”ということで、じゃあプリントをとってもらおうと。それで1本プリントができてきた。それが大体120分くらいだったんです。仕上がりが99分ですから、30分近くオーバーしているということは、すごい甘い、編集ができたとは言い切れないようなものですよ。それをデジタル化してパソコンに取り込んで、当時の編集の大橋(富代)さんという人はまだ健在で現役だから、彼女を呼んで、ぼくと彼女がデジタルで編集をやり直して、一昨年の10月に完成されたということです」

 一般的に映画のフィルムは、編集が終了した段階で、映像のみを記録した画ネガと音声のみを記録した音ネガが別々に作成されますが、今回発見された『ナンバーテンブルース』の場合は、編集途中の映像と音声を1本にまとめたネガが存在したために、音声も入ったかたちで復元することができました。しかし、映像と音が同時に記録されているゆえの困難もありました。

「こう切ってこう繋ぎたいけど、そうすると音がプツンと途切れちゃうとか、そういうところはいっぱいあったわけですから、やりたくてもできないことがある。だけど我々も根っからの映画屋でプロであるわけだから、じゃあそれをどうやっていくかというのが7月から10月までの作業だったですね。基本的な編集はできていたわけだし、単純に言えば“どう切り込んでいくか”ということですね。ぼくは映画というのはやっぱり1時間40分、絶対に2時間を越えてはいけないと。特にエンターテイメント映画はね。だからとにかく切っていく。でもただ切れば済むものではないから、ツギハギしなくてはならない。基本的には、75年にやった編集が基本です。それをそう大きく変えてはいません」

 撮影を終えてから完成まで実に37年。永い時間はかかってしまったものの、フィルムが発見されたのがデジタル技術が進んだ現在であったからこそ作品を完成させられたという側面も「間違いなくありますね」と監督は言います。

「デジタル化できなかったら、編集に手を入れるなんてことはできなかった思います。だから、1本プリントを焼いて、その1本のプリントを、ぼくが自分のライブラリーに入れておくくらいしかできなかったんじゃないかな」

2014年に『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』が伝えるもの――「映画を育てる」ために

 撮影から37年を経て完成、フィルム発見後にオーナー・プロデューサーのご遺族からフィルムの権利も譲渡され、一般公開も可能となりましたが、監督には「この作品をいまから世に出すことがいいのかどうか、あるいはそのことにどれくらいの意味があるのか」迷いがあったといいます。そのとき監督の力となったのは、監督の周りにいる若い演出家や脚本家、スタッフの方々の声でした。

「彼らに試写を観てもらったら、多くの人が“これは面白いですよ、いまやる価値があると思います!”と、ぼくの後押しをしてくれたんです。同時に、彼らといろいろなディスカッションをしているときに、さっきもお話した“日本人はこれだけのジレンマを整理できないまま高度経済成長に浮かれていていいんだろうか? そんなものは偽物なんじゃないか?”というこの映画のテーマが現代にも意味があるんじゃないかと思ったんです。2011年に東日本大震災、続いて福島の原発事故というのがあって、あのとき多くの日本人たちは“我々は経済至上主義、効率至上主義で原発をどんどん作ってここまで来て、それがこの結果を引き起こした。いまもう一度、日本がいままで歩んできたこの道がほんとに日本にとっていいものか考えてみよう”と思ったと思うんです。ところがね、1年経つか経たないかの間に、もう原発再稼働という話が出てきて、それは経済効率が大事だからですね。さらに3年経ったいまになると、アベノミクスとやらと一緒になって原発再稼働は当たり前という雰囲気になっている。たった3年で“もう一度日本人が歩んできた道を見直してみよう”というあのときの想いはどこに行っちゃったんだと。これじゃ1970年代に“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と言われて浮かれていたころと同じじゃないかと。だったら、その意味で“日本人よ――お前は一体どこへ行こうとしているのか!?”というコンセプトでいま上映することにひとつの意味があるんじゃないかと思ったわけです」

 その監督の想いは多くの人々の賛同を呼びました。そして『ナンバーテンブルース』は、日本での公開に先駆けてロッテルダム映画祭やオースティン映画祭など海外の映画祭に招待されて高い評価を得て、海外での公開予定も進んでいます。日本公開より先に海外での上映を積極的に進めた背景には、日本映画の現状に対する監督の想いがありました。

長田紀生監督写真

当時の写真・資料を背に立つ長田監督。この資料は映画公開にあわせテアトル新宿に展示される

「まず外国である程度の評価を得ようと。意識的に日本での公開は最後でもいいと思っていたんです。それはなぜかと言ったら、ぼくはいまの日本映画界というのはいろいろな意味で停滞していて、停滞している原因のひとつはテレビ局がイニシアティブを握っていることだと思うわけ。内容的にもテレビドラマの焼き直しであったり、映画を露払いにしてそのあとテレビでやるものだったり、マンガを原作にしたものであったり、テレビ局と大手の広告代理店がイニシアティブを握って製作委員会という名の経済効率最優先の組織を作ってやる中で、日本映画は力を失っていると思うんです。テレビでやれば充分じゃないかというものばかりになって、時代や状況と本気で対決するような映画ができなくなっていると思う。なんとかそれに風穴を開けるためにも、ぼくはそれとは違う公開の仕方をやってみたかった。そしてそれが、ぼくよりもっと若くてインディペンデントで作っている人たちに“こういう方法があるんだ。じゃあそのやり方をもっと進めていこう”と参考になればいいなという想いがあったんです。だから、日本での公開は少し遅れてもいいので、どこかのテレビ局に持っていって公開についてお願いをするみたいなことはしないでおこうと。そしたら、ごく初期の試写に東京テアトルの方が観にきてくれて“ぜひ、うちでやりたい”と言ってくれて現在に至っている。大阪も神戸も名古屋も広島も、どんどん全国で決まりつつあるんです。配給会社は入れずに、自分たちが直接映画館の館主さんと話をして決めるというかたちでやりながら、それが若い人の映画作りのなにか参考になればいいなと思いますね」

 長田監督は、この作品を「旺盛な生命力を持った子ども」と喩えます。1975年当時の時代の雰囲気を感じさせる映画の内容も含め、40年近い年月を経て公開されるこの映画が放つ“生命力”は、いまの時代に大きな意義を持っているように感じられます。

「そうだとしたら嬉しいですね。川津祐介さんが“やっぱりこの映画は、こういう運命を持っていたんだろう”というようなことを言っていたんです。運命という言葉にもいろいろな意味やいろいろなニュアンスがありますけども、この映画は、監督のぼくが“もう俺にとってはあれは終わった仕事だ”と自分で自分に言い聞かせようとしていたにもかかわらず、子どもであるこの映画自身が“俺はそう簡単には死なないよ”と言ってぼくの前に現れてきたような気がするんですよ。あの映画ファンの方がいなかったら、フィルムセンターが保管しておいてくれなかったら、この映画はいまやもうなかったわけです。そういうひとつひとつのことがこの映画の生命力だったんだろうと思うんですよね。そして“俺はまだ死んじゃいないぜ”と、いま歩き出そうとしていると思うんです」

 最後に、長田監督から観客に向けてのメッセージをお願いしました。

「ぼくはさっき“日本映画は停滞している”と言ったけれど、それはさっき言った製作委員会などのシステムの問題だけじゃなくて、やっぱり一番大きな問題は我々作る側にあると思うんです。それは紛れもない真実だと思います。若い監督やライターと話していてもぼくはそう思う。映画がテレビ局主導になっているという理由はあるけれど、プロデューサー、監督、ライター、役者も含めて、映画人たちがみんなその範囲の中で仕事をするということに慣れすぎてしまっていると思う。ときにはその範囲の中から出て、毒のある映画を作るべきだと思うんです。だけどね、結局、映画を作っていくのは観客なんですよ。観客の人がそういう映画を育ててくれなければいけないんです。“こういう映画を観て面白かった、だからこういう映画がもっと増えればいい”というような観客の想いは必ず映画界にフィードバックされると思うんです。いまや、人々にとっての娯楽は決して映画だけではなくて、むしろ映画なんて片隅のものでしかないかもしれないけども、やっぱり映画館に足を運んで映画を観る。あるいは映画のことを話題にする。自分が観てきた映画のことを恋人とでも友達とでも話す。あの映画は面白かった、あの映画はくだらねえよ、あの映画の役者はセクシーだった、なんでもいいんです。映画のことを日常の話題の中に入れてほしいと思うんです。もし、みんなが観る映画が面白くないとしたら、面白くなくしたのは映画人でもあるけれども、観客でもあるということだと思うんです。だから、この映画に関して言うなら、ぜひ観てほしいし、観たら話してほしい。家族や友達と“こういう映画を観てきた”ということを話題に乗せてほしい。それが、映画を育てていくということだと思うんです」

(2014年4月10日/プレサリオにて収録)

作品スチール

ナンバーテンブルース さらばサイゴン

  • 脚本・監督:長田紀生
  • 出演:川津祐介 ファン・タイ・タン・ラン 磯村健治 ほか

2014年4月26日(土)よりテアトル新宿 5月3日(土)より大阪シアターセブン 5月10日(土)よりキネカ大森 5月31日(土)より名古屋シネマスコーレにてロードショー

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