大学の研究室で働く足の不自由な行助(ゆきすけ)と、小さなたいやき屋をひとりで営むこよみ。ふたりが少しずつ親しさを増していく中で、こよみが事故に遭う。そしてこよみは、新しい記憶を短時間しか保てなくなっていた――。
海外でも高い評価を受ける中川龍太郎監督は、映画出演が続く仲野太賀さんと元・乃木坂46の衛藤美彩さんをダブル主演に迎えた新作『静かな雨』で、初めて小説の映画化に取り組みました。
作家・宮下奈都さんの同名小説が原作の『静かな雨』は「記憶」をめぐる切ない物語であると同時に、中川監督の時代への想いが込められた作品にもなっています。中川監督が映画『静かな雨』で描こうとしたものとは?
中川龍太郎(なかがわ・りゅうたろう)監督プロフィール
1990年生まれ、神奈川県出身。自主制作による作品が海外の映画祭で受賞するなど国内外で高く評価され、長編『愛の小さな歴史』(2014年)と『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(201年)で東京国際映画祭2年連続入選を果たす。以降も『四月の永い夢』(2017年)が第39回モスクワ国際映画祭コンペディション部門で国際映画批評家連盟賞とロシア映画批評連盟特別表彰をダブル受賞し『わたしは光をにぎっている』(2018年)がモスクワ映画祭でワールドプレミア上映、『静かな雨』(2019年)が第20回東京フィルメックス観客賞を受賞するなど、世界的に注目を集めている。また詩人としての顔も持ち、2010年には「詩とファンタジー」年間優秀賞を受賞
行助はこれからの日本を生きていく現代の若者の象徴として描いているつもり
―― 『静かな雨』は監督にとって初めてほかの方の原作を映画化した作品となりますが、最初に原作小説を読まれたときはどのような印象を持たれましたか?
中川:まず最初に、すごく美しいと思ったのと同時に、映画化することはけっこう難しい小説なのではないかと思いました。主人公の行助とこよみが積み重ねていく日々をエッセイのように書いた小説だと思ったものですから、ドラマとして映画の中で起承転結を作るのは簡単ではないなと思ったんです。ただ、この小説の中で描かれていてすごく魅力的だと思ったのは食事だったりとかの生活のディティールの美しさで、そこにフォーカスして作れば魅力的な映画ができるのではないかと思い、引き受けさせていただきました。
―― 映画化にあたっていくつか原作から変更されている部分がありますね。たとえば原作では松葉杖をついている行助が映画では杖を使っていません。プレス資料によると実際に足の不自由な方々に取材したところ松葉杖を使わない方が多かったというのが変更の理由だそうですが、その変更によって行助の「足を引きずる」という動作が強調されているように感じました。
『静かな雨』より。仲野太賀さんが演じる行助(右)と、衛藤美彩さんが演じるこよみ
中川:そうですね、行助というのはこれからの日本を生きていく現代の若者の象徴として描いているつもりで、日本はこれから経済的な発展もあまり見込めないでしょうし、ぼくらはぼくらの親世代に比べてひじょうに困難な時代を生きていくことになっていくと思うんです。そういうときの一種の不全感であったり「速く走れる感じがしない」と言うんですかね、ほんとはもっと速く動きたいけど動けなくて地道にゆっくり歩いていくしかないというようなことは、行助が足を引きずっているということと通じるのではないかと思って、あのようなかたちにしました。
―― それはネガティブな意味合いではなくて、松葉杖のように頼るものがなくても自分の足だけで進んでいくという前向きな意味でもあるわけですね。
中川:もちろんそうです。おっしゃってくださっているとおりですね。
―― 足を引きずる動作を続けるのは、行助を演じる仲野太賀さんにとっては大変だったのではないでしょうか?
中川:大変だったでしょうね。うんざりしていたかもしれません(笑)。今回はサード助監督の伊藤希紗くんという人がひじょうに丁寧に足の不自由な方々へ取材してくれていて、たとえば着替えるときにどうやってズボンを履くのかとか、動作については細かく太賀に演出を付けてくれました。
―― 監督の作品で仲野太賀さんが主演するのは『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2015年)に続いて2作目になりますが、仲野太賀さんにはどのような印象を持たれていますか?
中川:太賀は、俳優さんの中では数少ない友人といえるような存在で、身長もぼくと同じくらいですし、映画の中における彼というのは自分の分身みたいな存在だと思っているんです。太賀自身のパーソナリティみたいなものもぼくと似ているところはあると思っていますし、前回の『走れ、絶望に追いつかれない速さで』では友人が死んだというぼくの経験を投影したキャラクターで、今回は世代を象徴したキャラクターとして行助をやってもらっているので、自己を投影した存在としての太賀というところはありますね。
―― 今回、監督から仲野太賀さんに「こういうふうに演じてほしい」と求められたことはあるのでしょうか?
中川:ぼくから言うというよりは、とにかく話し合いました。当時、住んでいる場所が近かったものですから、深夜にカフェみたいなところや近所の公園とかで会って、行助はどういう人物なのか、そしてこの映画はどういうものなのかということを徹底して話し合った記憶はあります。現場に入ってからは太賀に任せるというか、あまり話すことはなかったですね。ただ、こよみさんが記憶を失っては新しく覚えるということを何度も繰り返していく中で、それを行助がどういうふうに受け止めるのかということに関しては、現場でもけっこう話しました。今回は撮影スケジュールの関係で順撮りできなかったんです。なので、こよみさんはいま記憶を失ったのが何回目で、どういうニュアンスで受け止めればいいかということは、細かく相談してやっていました。あれはちょっと大変でした。
気持ちの強さこそ、こよみさんと衛藤美彩さんをつなげている部分
―― もうひとつ原作との違いとして、映画ではこよみがどんな事故に遭ったのかという説明がなかったり、記憶を保てない理由として原作では使われている「高次脳機能障害」という用語が出てきませんね。
中川:それは一番意識していたところだったので、そこを見ていただけたのは嬉しいです。どういうことかというと、この映画はあくまで寓話、おとぎ話なんです。原作もおとぎ話だと思うんですけど、文章だから成立するんですね。どういう事故に遭ったのというのを原作で書かれているとおりに映像でやるとまどろっこしくなってかえって嘘くさくなってしまうと思いました。「高次脳機能障害」という単語もリアリティのある言葉だからこそ、それをおとぎ話のような世界観の中に入れると嘘くさくなってしまうと感じたんです。ですから、そういうところはもう一切削ぎ落として、あくまで寓話として撮るということに集中して作ったという戦略ですね。
―― どんな事故だったのかの描写がないことで、観客が想像する余地があるようにも感じました。
中川:それもおっしゃるとおりで、記憶喪失や交通事故というのは本質じゃないと考えていたんです。これからぼくたちの人生で幾多も降りかかってくるだろう予期しない不幸の象徴というイメージでした。それはある人にとっては病気かもしれないし、災害かもしれない、あるいは事件かもしれない。いろいろなものにそれぞれが当てはめられる空白こそが、この作品における記憶喪失ということなんだと思います。
―― おとぎ話、寓話として映画を成立させる上で、こよみを演じた衛藤美彩さんの存在は大きいと思いました。衛藤さんをこよみ役に起用された理由はどんな点だったのでしょう?
中川:原作におけるこよみさんは結構抽象的な存在というのか、透明な存在だと思いました。映画は観念ではなく、肉体ですから、どのようにしてこよみさんを透明感がありながら、たしかにそこに生きている存在として描くのかを考えたときに、衛藤さんは適役でした。こよみさんは一見おとなしいけれど、とても気が強く、頑固な性格をしています。衛藤さんは小さいころに生死に関わるような病気をされたご経験があったり、乃木坂のグループの中でもいわゆるエリートコースとは違う道を歩んでこられたという話を撮影前にうかがいました。こよみさんの過去というのは原作では言及されてないし、映画でも明示はされていないんですが、やはりすごく苦労してきた人だと思うんです。そういう意味でも、衛藤さんにやってもらうのがいいんじゃないかと思ってお願いした次第です。
―― 実際にお仕事をされて衛藤美彩さんの印象はいかがでしたか?
中川:撮影をした時期は衛藤さんがまだアイドルとしてご活躍されていました。自分の中に偏見があったわけではありませんが、アイドルの方を演出した経験はありませんでしたので、少なからず不安はありました。要するに素材が素晴らしくても演出する技量がぼくにあるのかどうか、すごく不安だったんです。でも、衛藤さんはとにかく勘がよく、素直な方でしたので、ほんとにスムーズにやれました。ひとつ印象的だったのは、映画の終盤に出てくるこよみと行助が喧嘩をする場面です。なかなか自分の意図するところを衛藤さんが表現できずに苦しまれていたのですが、何度も何度も諦めずに挑戦してくれました。この気持ちの強さこそ、こよみさんと衛藤さんをつなげている部分だと改めて感じたものです。
―― キャストの面では、行助が勤める研究室の教授役のでんでんさんや、パチンコ屋店長の川瀬陽大さん、医者役の古舘寛治さんといった、ほかの作品では個性の強い役を演じることの多い俳優さんがさりげない役を演じているのが印象的でした。
中川:これもやはり一種の寓話という部分につながってくると思うんですけれども、要するにぼくはこれを死者たちの世界の中で生きている人たちの話にしたいと思ったんです。教授も、パチンコ屋の店長も、医者も、河瀨直美さんが演じているこよみさんのお母さんも、リアルな存在というよりは抽象的な存在というふうにイメージしているんです。そのためには、リアルな演技力と同時に存在感の強さが必要だと思っていました。こよみさんは一種の精霊みたいな存在で、教授とかもそれを取り囲む精霊みたいな人たちなんですよね。リアルな存在なのは行助と、行助の勤めている研究室の院生で三浦透子さんが演じた斉藤真理で、そこのふたりはリアルに描こうと思っていました。
明るい気分で生きていない人にこそ、そっと寄り添える映画だと思っている
―― 行助が朝食の支度をするところとか、こよみがたいやきを作る過程のように、料理を作る場面が丁寧に描かれているのが印象に残りました。それは冒頭でお話に出た「生活のディティール」という部分なのでしょうか?
中川:そうですね、これからの時代というのは、たとえば高級な車に乗りたいとか、東京の一等地に大きな一軒家を建てたいとか、日本人はそういうことはあまり考えなくなって、もうちょっとささやかなものに喜びを見出していくようになっていくような気がするんです。だからこそ、食事を作るような生活のディティールというのは、この映画においてはディティールではなくて主役と言ってもいいくらい大事な存在だと思っています。あの行助の家は東京の国立市というところにあって、ぼくが散歩の途中に見つけた民家なんですけど、そこを美術の安藤(秀敏)さんと菊地(実幸)さんが、とても魅力的な生活空間を作ってくれました。
―― まさに行助の家のシーンなどで感じるのですが、以前の作品も含めて監督の作品は人と人の間にある空気や、人が暮らしている場の空気を描いているという印象を受けます。空気を描くために意識していらっしゃることはあるのでしょうか?
『静かな雨』より。行助の家の中の行助のこよみ
中川:面白い質問ですね。映画における空気感とは、とりもなおさず光でしかないと思っています。そこにどういう光が映っているか、どういう光がその世界にあるのか、そういうところを起点に考えていくようにしています。それから「光」と同時に「音」ですね。音はやはり映画特有のこだわるべきところとしてあるのではないでしょうか。まず世界があって人がいる。人がいて場所があるのではなくて、場所があって人がいる。だから、光と音から考える。
―― 今回は画面のサイズが最近の映画では珍しい4:3のスタンダードサイズとなっていますが、このサイズを選ばれた理由はなんだったのでしょう?
中川:そもそも映画というものが最も美しく存在できるサイズってなんだろうということは、いろいろな監督がみんな考えていると思うんです。ぼくはそれはスタンダードサイズなんじゃないかなと思っていて、人間が実際に生活しているときに見ている画角っていうのは実はスタンダードサイズくらいだと聞いたことがあります。人間の視野は180度以上感じることはできますが、ちゃんと焦点を合わせて「見る」ことができるのは正方形に近い、スタンダードサイズくらいだと思います。そういう意味で、スタンダードサイズというのは映画の中で誰かの個人の人生を追体験させるのにはひじょうに向いていると思います。壮大なスペクタクルであったり歴史大河であれば横に広いサイズがいいと思いますが。このインスピレーションを与えてくれた作品は、数年前に公開された『サウルの息子』(2015年・ハンガリー/ネメシュ・ラースロー監督)という映画です。『サウルの息子』はゾンダーコマンドと言ってユダヤ人なんだけどナチスドイツ側でユダヤ人を管理している人の話で、そのことを観客に疑似体験させるように4:3のスタンダードサイズでずっと主人公を追っていくんです。その作品を観てこの方法はいいなと思って、それがけっこう『静かな雨』に影響を与えているなという感じはあります。
―― では最後になりますが、今回『静かな雨』は2月公開と、ちょうど映画の中の時間と同じ時期の公開になりますね。公開を前にしてのお気持ちをお願いします。
中川:映画の中と同じ時期に公開になるのはぼくも嬉しいです。この映画は前作の『わたしは光をにぎっている』とちょっと通じると思っているんですけど、疲れている人に観てもらいたいなというのはあるんです。やはり、いまはみんなどことなく疲れていて、将来が不安であったりとか、あまり明るい気分で生きてはいないと思うんですね。この映画は、そういう明るい気分で生きていない人にこそ、そっと寄り添える映画だと思っているので、元気のない人には特に観てほしいと思っています。
(2020年1月13日/都内にて収録)
静かな雨
- 監督:中川龍太郎
- 原作:宮下奈都「静かな雨」(文春文庫刊)
- 出演:仲野太賀 衛藤美彩 ほか
2020年2月7日(金)シネマート新宿ほか 全国順次ロードショー