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『超擬態人間』藤井秀剛監督インタビュー

 幼児虐待事件が報じられることも多い現代、藤井秀剛監督をはじめとする2017年のカルトヒット作『狂覗(きょうし)』のスタッフ・キャストが、幼児虐待を題材にしたスラッシャー・ホラー『超擬態人間』を生み出しました。
 森の中で目覚めた父子と、道に迷った婚約中のカップル。ふたつの出来事から始まる『超擬態人間』は、予測不可能の展開へと観客をいざないながら、衝撃的な描写の中で深遠なテーマを提示していきます。
 海外の映画祭での高い評価を得て、海外での配信公開に続き日本公開を迎える『超擬態人間』。なぜホラーで社会問題を描くのか、なぜ海外を目指すのか。日本映画界を独自の視点で見る藤井秀剛監督に語ってもらいました。
※このインタビューの取材は2020年3月におこなわれました

藤井秀剛(ふじい・しゅうごう)監督プロフィール

中学卒業後に単身渡米し、カリフォルニア芸術大学を卒業。10年のアメリカ生活から帰国後、2500本 の脚本の中から、音楽プロデューサー・つんく♂氏に見出され『生地獄』で監督デビューを果たす。人の恐怖に社会風刺を交えたサスペンス/ホラーのみを描くジャンル監督。2017年に公開された『狂覗(きょうし)』は1週間のレイトショーに始まり、ロングランヒットを記録。キネマ旬報からも年間BESTに選ばれるなど、高い評価を得る。『超擬態人間』以降も『闇國』(2019年)『半狂乱』(2020年)、香港の人気女優 ジョシー・ホー主演の香港映画『怨泊~OnPaku』(2020年)が待機中

モヤモヤしているときに出会ったのが伊藤晴雨さんの絵だったんです

―― 『超擬態人間』の企画は、かなり以前からスタートしていたそうですね。

藤井:もともとスタートは2000年くらいです。最初は『死霊のはらわた』(1981年・米/サム・ライミ監督)のような映画を「脱Jホラー」な感じでやりたかったんですよ。当時『リング』(1998年/中田秀夫監督)の1作目がヒットしてその手の作品が横行している中で「お化けだと思ったら結局はお化けじゃない」という話を作りたかったんですが、その企画はなかなか通らなかったんです。そこから数年経って、原作がないと企画が通らない流れになっているときに、なにか別の方法論はないかなと考えて思いついたのが、当時はまだ誰もやっていなかった「お化け屋敷の映画化」という案だったんです。これはいい案じゃないかと思って調べたら、富士急ハイランドに「戦慄迷宮」という大きなお化け屋敷があって、そのころで来場者100万人以上とかだったんですよ。それだけ人気ならベストセラー小説を映画化するのと同じくらいの企画になるだろうと思って富士急さんに話をしたら「ぜひに」と言ってくださって、映画化することになったんです。じゃあどんな話にするかというときに持っていったのが『超擬態人間』の元になる脚本だったんですよ。

―― それは、清水崇監督の『戦慄迷宮3D』(2009年)とつながる企画ということでしょうか?

藤井秀剛監督写真

藤井:そうです。まあ、いろいろな人が関わっていくと変な流れとかもあって、まさに忖度によってぼくは企画から外されて、清水崇さんが監督なさって完成したという流れなんですよ。

―― 完成した『超擬態人間』は、何本分かの映画のアイディアが1本に詰め込まれているのではないかというくらい、いろいろな要素がミックスされているように感じました。そういう要素はどのように発想されたのでしょうか?

藤井:なんでしょうね。たぶん、脚本を書く際、映像に転換したときどうなるか考えず、読んでいて面白いものを書こうとするところがあるんですよ。自分で「次のページではどうなるんだろう?」と楽しみながら書いているので、どんどんおかしな方向になっていくというのはあるかもしれません(笑)。それはいい部分でも悪い部分でもあって、映像になったときのバランスをどう取るかがぼく自身の課題かなと思うんです。

―― では、その要素のひとつひとつについてお聞きしたいと思います。まず『超擬態人間』を作る上で画家・伊藤晴雨の幽霊画「怪談乳房榎図」にインスパイアされたとのことですが、その絵とはどのように出会ったのでしょう?

藤井:昔の脚本を映像化するためには、幽霊のデザインとかなにかインスピレーションとなる要素が欠落していて、モヤモヤしているときに出会ったのが、この絵なんです。ただ、赤子を抱えた幽霊の絵ですから、最初は女性の幽霊だと思ったんですよ。女性の幽霊だと『超擬態人間』には合わないので一度はあきらめたのですが、なんか頭からずっと離れなくて、改めて調べてみたら、日本唯一の赤子を抱えた男の幽霊の絵だということがわかって、しかも絵の元になった「怪談乳房榎」という怪談噺の舞台がうちの事務所のある辺りだったので、もう運命的なものも感じましてね。これは幽霊デザインとして使わせてもらおうと思って、絵を保管されている全生庵さんにも快諾をいただいて実現したんです。ほんとはポスターにもこの絵を使いたかったんですよ。いまのポスターはぼくが海外版としてスラッシャーに寄せて作ったもので、配給サイドとかの評判がやたらにいいのでそのまま使うことになりましたが、最初は国内公開のときは伊藤晴雨さんの絵でやろうと思っていたんです。

「人間の顔が変わる」というのがすごく嫌なんです

―― 次に、この映画の大きな核となっている幼児虐待、児童虐待にはどのように関心を持たれていたのでしょうか?

藤井:たぶん、子を持つ親になれば誰でも幼児虐待に関心は持つと思いますし、ぼく自身、虐待問題をテーマにやりたいなとずっと思っていたんですけど、ただ単に「虐待は悪いことです」という映画に意義を感じず悩んでいた部分はあるんです。それが、たまたま『超擬態人間』を作る何年か前に、子どもが森で行方不明になる事件があったんですよ。結局いなくなった子は5、6日後くらいに見つかったんですけど、そのお父さんが「子どもが言うことを聞かないから置いてきた」みたいなことを言い出したりして、当時ニュースを見て「虐待じゃないか?」と思った人は多かったと思います。実際は違ったわけですが、いろいろと腑に落ちなくて自分の中でそこの穴を埋めようとした結果が『超擬態人間』につながっているんです。「なにか理由があるんじゃないか?」という疑問が発想の転換になって、虐待問題を扱うためのヒントを見つけたんです。だから、ぼくがやりたかったのは『ザ・チャイルド』(1976年・スペイン/ナルシソ・イバネッツ・セラドール監督)で、もっと広い観点で人間の根幹に触れるような映画を作りたかったんです。いくら「虐待はダメです」と言っても世の中から幼児虐待はなくなっていないじゃないですか。やはり、親として子育てをしている人ってそこでせめぎあいみたいな部分が絶対にあると思うので「虐待はやめましょう」というだけの映画にはしたくなかったんです。

―― もうひとつ、作品のタイトルにも使われている「擬態」が大きな要素ですが、監督が「擬態」に興味を持たれるきっかけのようなものはあったのでしょうか?

『超擬態人間』スチール

『超擬態人間』より。ある朝、森の中で父子は目覚めた……

藤井:この企画を立ち上げたときから一番メインとなる骨格の部分なんです。ぼくはどこか青臭いところがあって、社会で生きている中で「人間の顔が変わる」というのがすごく嫌なんです。某バラエティ番組に出演させていただいたとき、本番になると出演者たちが急に親しげに話しだすという経験をして以来バラエティ番組に対する嫌悪感が強くなったところはあります。この業界に限らず、いまの社会って必要以上に裏表がある気がするんです。表ではいい顔をして裏だと別の顔があるという、結局それは自分を守る保身のための「擬態」で、ぼくはそれが学生のときから嫌いで、社会に出てからも悩まされているんです。この20年間「擬態」がブレずに骨格としてあったのは、それが理由なんです。世の中の多くの人は頭がいいから「擬態って必要なのかな」と思いながらも順応して生きていけると思うんですけど、ぼくのように順応できない人も多いんじゃないかと思ったりするので、それがすべてですね。

―― いまのお話をうかがっていて思ったのですが「人の裏表」という部分は前作の『狂覗(きょうし)』にも出てきた要素ですね。

藤井:そうですね、たしかに『狂覗』にも人間の裏表はありますね。少しは違うことやれよって感じですね(笑)。

―― 今回『超擬態人間』では「擬態」というキーワードで「人の表と裏」からもうひとつ飛躍しているようなところがありますね。その飛躍の仕方がすごいなと思いました。

藤井:ぼくは社会の問題にもすごく興味がありますけど、一方でオカルトチックなものとかミステリアスな世界にも興味を持っているんです。雑誌の「ムー」とかも好きだし(笑)。だから、映像作家として当たり前ですけど、そういう違うものをくっつけるのが楽しいんですよ。「これとこれは合体させられるじゃん!」みたいなネタが見つかったときはすごい楽しいですよね(笑)。

最初から「世界で闘おう」とみんなに提示していたんです

―― いままでお尋ねした幽霊画や虐待問題、擬態に加えて、出てくるモンスターが“なまはげ”であったり、古民家が出てきたり、登場人物のひとりの女性が和服だったり、作品全体に日本的なものが散りばめられていますね。

藤井:それはもう絶対的なものでした。撮影前にうちのチームに伝えていたのは「とにかく世界を目指そう」と。あまりにも世界に出てない映画が多いと思うんです。世界中の映画ががんばっている中で、日本映画は「がんばってない」のか「がんばれない」のかわからないですけど、海外で弱いという現状があるんです。今回、海外映画祭の懇親会でほかの国の監督連中と食事しながら話をしていると「もう低予算なんてうんざりだよ、まっぴらだよ」みたいな話になるんですけど、彼らの言う低予算というのは日本円にしたら3億とか安くても1億とかのレベル。ぼくは「君も大変だろ?」とか言われて苦笑いするしかないみたいな(笑)。売値でも日本映画は最も安いランクで、いまはフィリピンやタイの映画が力を付けてきていて日本映画より高いくらいなんです。そんなふうに日本映画が海外になかなか出ていかなくて、出ようとしても買い叩かれているという状況は、海外で生活してきたぼくには腹の立つことでもあるんです。だから、映画を作る以上は世界で闘いたいですし、最初から「世界で闘おう」とみんなに提示していたんです。
  海外と日本が融合した面白い方法論を提示できないかなと考えました。そのときに思ったのが『サスペリア』(1977年・伊/ダリオ・アルジェント監督)のジェシカ・ハーパーが森の中を走っていくのが和服で竹やぶの中だったら面白いんじゃないかという、そこがすべての発想の始まりなんです。そこに桜の花があったらどうだろう、行く先が洋館でなくて古民家だったらどうだろうと、そこから日本的なものがどんどん広がっていったんです。だから和服、竹やぶ、古民家、沼は絶対に欠かせなくて、撮影があまりに難しくて断念したんですが桜の花も入れたかった。そういう日本的なものは世界で闘うために必要な要素として考えていったんです。

―― 日本の公開より先に海外の映画祭に参加したのも、やはり「世界で闘う」一環ということでしょうか?

『超擬態人間』スチール

『超擬態人間』より。竹やぶを走る和装の女はなにから逃れようとしているのか……

藤井:そうです。それこそ日本では公開しなくてもいいんじゃないかと思っていたくらいで、海外を照準にしていました。

―― 実際に海外の映画祭に参加されて監督が特に感じられたことはありましたか?

藤井:やっぱり「もう忖度やめましょう」って感じですよ。日本の悪しき文化というか、そのせいで日本人からは前に出る姿勢が失われている。海外の人たちって前に出る姿勢がすごいですし、さらに英語の問題があって、日本人は慣れてなくて英語を喋ろうとしないから、その時点で日本人は何歩も下がった状態からのスタートになるんです。この前、ベルギーのブリュッセル国際ファンタスティック映画祭に行ったとき、質疑応答のあと司会の人に「この映画祭で300人以上の方の司会をしたけど、日本人で通訳をつけなかったのはふたり目だ」って言われたんです。ひとりは原田眞人さんで、もうひとりがぼくなんですって。それはぼく的には嬉しいというより情けなかったですよ、世界三大映画祭で自分の言葉で喋った監督がふたりだけって。ほかの国の監督さんはみんな舞台で自分の言葉で喋っているのに、こんな情けない状況はないでしょうというのが海外の映画祭に参加して改めて感じたことだったりしますよね。その一方では、韓国の映画祭で日の丸のハチマキ巻いて日本刀振り回して、わざとじゃないにせよスクリーンに傷を付けたみたいなニュースが聞こえてきて、そんなことやったら韓国の人たちがどう思うかすら考えられないのかって。日本を代表してそこに立っているという姿勢のないクリエイターがいると日本の映画の価値がどんどん下がっていくと思うんです。日本の映画界は、もっと前に出る姿勢を持ち、日本代表という姿勢で国際舞台に立てる人を見つけ、しっかり育てていくことも必要なんじゃないかと思いますね。ただ、それには最初に言ったように忖度というものが邪魔している部分があって、実力より処世術が大事みたいなところが日本のダメなところだと思います。ちょうどこの間、アカデミー賞を獲ったメイクアップアーティストのカズ・ヒロさんが日本の風潮が嫌で海外に行ったとおっしゃってましたけど、カズ・ヒロさんのように海外に出て成功するのではなくて、日本国内でも実力主義で才能のある人を使えるエンタメ業界になるといいと思います。

「普通の映画は作ろうとしてません」ということは言いたいです

―― 今回はもちろんスラッシャー的な表現の怖さもありますが、むしろこの先どうなるかがわからない展開の読めなさも怖さを生み出していると感じています。監督は今回、どのような怖さを意図していたのでしょうか?

藤井:さっきお話ししたようにぼくの中で目指すところとして『ザ・チャイルド』があったので、あの作品が到達したところに行くためにはどうしたらいいかと考えると、理屈で組み立てられることではないのですごく難しいんですよ。『超擬態人間』は、初号はいまより20分くらい長かったんです。その長いバージョンだといろいろ説明しすぎかなと思ったので、プロデューサーとも相談して20分削ったんです。あまり説明的に作ったつもりはなかったんですけど説明しすぎていて怖くない。だからすべて排除しました。説明がなければ疑問が残るし、自分でパズルを組み立てなくてはならない。そこが恐怖に繋がると思ったんです。そして、とにかく疲れさすこと。もう、観たあとに疲労困憊にさせて、気分を悪くさせたかった。それを通して、ぼくが『ザ・チャイルド』を観たときのような、潜在的なメッセージがお客さんに伝わればいいなと思っています。

―― 監督は『超擬態人間』公式フェイスブックのインタビューで、恐怖を描くのには「弱さ」が必要だというお話をなさっていましたが、その「弱さ」について、もう少し詳しく聞かせてください。

藤井秀剛監督写真

藤井:さっきの擬態の話につながるんですけど、ぼくは裏表のある人が嫌いだし、怖いんです。結局、嫌うのは怖いからなんですよ。それで、ぼく自身もそうですけど、人間は弱いから装うんですよね。ぼくはそこに作品を作る意義を感じますし、それを通して世の中を少しでも変えていく手助けをすることが映像作家の意義だと思います。そしてまた、ホラー、サスペンスを通して「弱さってなんなんだろうね」と潜在的に訴えることだと思うんです。これはつい最近まで思ってなかったことで、ぼくは小学3年で映画を作りはじめてからずっとサスペンスばかり作ってて、ヒッチコックが大好きで、デ・パルマが大好き。最近になって「なんでこんなに怖いものに取り憑かれているんだろう?」と考えはじめて、自分で自分を紐解いていく中で「弱さ」を描きたいんだなと思ったんです。それはぼくが「弱い人」を嫌いだからで、でも嫌いだからと突き放すのではなくて、弱い人たちに武器を与えるのが映画というエンターテイメントなんだって、いまは考えているんです。それはまた変わっていくかもしれないんですけど、いまの自己分析ではそうです。いつかはホラーやサスペンスをやめてしまうかもしれません。それは、焦点を絞ることによってホラーやサスペンスではなくても「弱き人とはなんだ」ということを描けるのではないかと思うからです。『ドッグマン』(2018年・伊,仏/マッテオ・ガローネ監督)なんかは素晴らしかったですよね。

―― これは作品の内容とは離れた質問になるのですが、前作の『狂覗』がヒットしたことが、今回の『超擬態人間』に影響するというか、意識されていることはありますか?

藤井:ああ、なんかあるかなあ……。唯一思うのは、比較するのはおこがましいんですけど、昔『シックス・センス』(1999年・米/M・ナイト・シャマラン監督)が大ヒットしたあとに『アンブレイカブル』(2000年・米/M・ナイト・シャマラン監督)が公開されて、肩透かしを食らった人は多いじゃないですか(笑)。実際、あの映画がいかにすごいかという真価を認めている人も多いですけど、やはり『シックス・センス』のあのトリックを期待していた人たちはみんな肩透かしを食らいましたよね。だから、超大ヒットした『シックス・センス』と『狂覗』を比べるのは何度も言いますがおこがましいんですけど、同じ流れにならないといいなとは思います(笑)。『狂覗』のあのどんでん返しのトリックを期待しないでほしいです。『狂覗』でやろうとしたことと『超擬態人間』でやろうとしたことは別ですし、ときどきSNSとかを見ていると『狂覗』を観ている方で、それを期待して「『超擬態人間』すごく観てえ、楽しみだ」みたいなのを見かけたりして、内心「いやいやいや、違うから」って(笑)。そこは心配ですね(笑)。

―― では最後に『超擬態人間』に興味を持たれている方へメッセージをお願いします。

藤井:難しいですね、普遍的に訴えかけるのって(笑)。でも「普通の映画は作ろうとしてません」ということは言いたいです。メジャー映画でやれるような普通の映画をインディペンデントがやってしまったらおしまいなので。今回の『超擬態人間』は戦慄迷宮の企画が元ですけど、そのときにやろうとしてできなかったことをぶち込みつつ、絵空事な児童虐待防止メッセージで終わらない映画を作りたかったので、たっぷり疲労困憊してほしいですね。
 今年になって『ミッドサマー』(2019年・米/アリ・アスター監督)が大ヒットしていて、一筋縄ではいかない作品を求めている人も多いんだなって思ってすごく嬉しかったですし、希望のようなものを持てたんです。『超擬態人間』も一筋縄ではいかない映画ですので、そういうものを求めているならぜひ観に来てほしいです。もし彼女とふたりでキャーキャー言いたい単純明快な怖さを求めるのであれば絶対にこの映画は観ないほうがいい(笑)。自分の人生に意義を感じたくって、ヘビー級のパンチを食らいたいのであれば、ぜひ食らいに来てください。

(2020年3月20日/都内にて収録)

本記事の取材がおこなわれた後、新型コロナウイルス感染症拡大により緊急事態宣言が発令、映画館は営業の「自粛」を余儀なくされ、4月公開予定だった『超擬態人間』を含め多くの作品が公開延期または中止となりました。それから数ヶ月を経たいまも、映画界は新型コロナウイルスが及ぼした大きな影響の中にあります。
延期となっていた記事の掲載にあたり、藤井秀剛監督にいただいた現状を踏まえてのコメントを掲載いたします。

戦時下ともいえる状況にエンターテイメントの在り方、アーチストとしての在り方を考えさせられる延期期間でした。
「混乱の時代だからエンタメを」と言うは易しですが、その提示の仕方に対してぼくの中でまだ答えが見えません。
とはいえ中止ではなく公開できることへの喜びは大きくこれは尽力いただいたスタッフ並びに、ファンの方々のおかげと感じています。

作品スチール

超擬態人間

  • 監督:藤井秀剛
  • 出演:杉山樹志 望月智弥 田中大貴 河野仁美 坂井貴子 安井大貴 ほか

2020年10月30日(金)より アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺、池袋シネマ・ロサ ほか全国公開

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