『愛の予感』小林政広監督インタビュー
14歳の女子中学生が同級生を刺し殺した。その被害者の父親である男と、加害者の母親である女。東京を遠く離れた北の街でふたりは出逢う。互いに言葉を交わすこともなく、判で押したような毎日を過ごす中で、ふたりの中にはなにが生まれるのか――。
小林政広監督の最新作『愛の予感』は、今年8月に開催された第60回ロカルノ国際映画祭で、日本映画としては37年ぶりとなる金豹賞(グランプリ)を獲得したのをはじめ、4賞を受賞し話題となりました。その後も海外の映画祭への参加が続き、世界から注目を集めているこの作品が、いよいよ日本で公開となります。
登場人物は、男と女のふたりだけ。全編ほとんどセリフなし。そして男を演じるのは、小林監督自身。この大胆にも思える試みによって、小林監督がスクリーンに描きだそうとしたものとは?
小林政広(こばやし・まさひろ)監督プロフィール
1954年生まれ。高校卒業後に“林ヒロシ”の名前でフォーク歌手として活動。1982年に城戸賞入選をきっかけにシナリオライターとしての活動を開始、テレビドラマを中心に多くのシナリオを執筆する。1996年の初監督作『CLOSING TIME』でゆうばりファンタスティック映画祭グランプリ受賞。1999年から2001年にかけては『海賊版=BOOTLEG FILM』『殺し』『歩く、人』で日本映画初のカンヌ国際映画祭3年連続出品を果たす。2006年のカンヌ国際映画祭出品作『バッシング』が東京フィルメックスでグランプリを獲得するなど、これまでに国内外で多くの映画賞を受賞している。
「映画って特色がないとダメ。特にウチらみたいなインディーズで作っていく場合は」
―― 『愛の予感』は実際にあった事件を連想させる設定となっていますが、この題材を選んだきっかけはなんだったのでしょうか?
小林:溝口健二の『近松物語』(1954年)とか、いわゆる道行物みたいな作品があるじゃないですか。現代で、そういうタブーを犯した恋愛ものが作れないかと思ったのが最初なんです。前作の『バッシング』(2006年)では、誰かを愛するとか好きになるっていう恋愛感情はなにも描いていなかったんですけど、今度は激しさというか、映画の力強さとか、そういうものを内に秘めたパッションみたいなものを描きたかったんです。それでずっとモチーフとなるものを探していたんですけど、なかなか現代でタブーっていう状況はないんですよね。なにかないだろうかと考えていたときに、実際にああいう事件が起きて。そういう事件の加害者と被害者の親同士だったら、結ばれるってことは社会的にあり得ないわけですよね。だから、モデルにしたというよりは、これだったらタブーの話を描けるかもしれないなと思ったのがきっかけですね。
―― 殺人事件を題材としていながら事件自体の描写はないというのは、すごく大胆な手法のように感じました。
小林:最初は描こうかなと思っていたんですよ。冒頭のインタビューシーンの中で、短くフラッシュ的な感じで説明しようかなと思ったんですけど、そういうのを入れたとたんに壊れていくものもあるんですよね。この作品がそういう興味で見せていく映画なのかどうか。なるべくミニマムにしていきたかったっていうのもあったし、やっぱり、映画って1本1本特色がないとダメだと思うんですよ。特にウチらみたいなインディーズで映画を作っていく場合は、ほかの映画との差別化っていうか、特色をどうやって盛り込むのかって考えた場合に、なにもないほうがいいんじゃないかと思ったんです。
―― 冒頭のインタビューシーン以外にはセリフがないというのも「ミニマム」ということと繋がっているのかと思いますが、セリフをなくすというのはどの時点で決められたのでしょうか?
小林:最初から考えていたわけじゃなかったんですよ。頭のインタビューシーンから順にシナリオを書いていったら、事件から1年後の部分になってから、一向にセリフが出てこないんですよね。3分の2くらいまで書いていってもセリフがないんです。そこで「あ、セリフがないなあ」と思って、だったらこれで最後までいけるかなあと思ったんです。映画の中では、事件から1年経っても、彼らの中ではあまりいい兆しが出ていないんですよね。そういうときは他人とのコミュニケートなんて考えてもいないし、やっぱり人間って必要性があって言葉を交わすわけだけど、コミュニケートをしたいっていう気持ちがなくて、必要性もなければ、人間って喋らないですよね。だからセリフがなくなっていくのは、わりと必然的だったんです。
―― 1時間半以上の映画で、登場人物が順一と典子のふたりだけだというのも、大胆な試みだと思いました。
小林:結果的に1時間40分くらいの映画になりましたけど、最初は80分くらいになるのかなと思っていて、その中でシークエンスがないようなものを作りたいなと思っていたんですね。あんまりサイドストーリーとか、劇映画的な部分をなくそうと最初から考えていたので、それも必然的って言えば必然的ですね。今までもそんなに登場人物っていなかったからね。『バッシング』も、メインの占部(房子=『バッシング』主演)さんとお父さんとお母さん、あとはワンシーンくらいずつ出てくる人ばっかりじゃないですか。そういうのがいつもやっている作り方ですから、特別、ふたりということを狙ってやっているっていうのではないんですね。
―― その登場人物の一方である順一を、監督自身で演じられた理由はなんだったのでしょう?
小林:シナリオがね、細かく書かれたシナリオじゃないんですよ。「典子が料理をする」とか「順一、働いている」とかしか書かれていなくて、具体的な動きとかは書いていないし、だからキャラクターがわからない。ぼくしかキャラクターを知らないんですよ。それで、どんな役者さんにやってもらったとしても「こう動いてください、ここはこう動いてください」と、かなり細かいところまで具体的な指示を与えないとうまくいかないだろうなっていうのがあって。そうやって作っていくものでもないかなって思ったし、そうやったとしても「失敗したな」って思うかもしれないしね。シナリオを自分で書いてからすごく時間が経っていたので、いろいろ膨らませたり、発酵させたりする時間が自分の中で持てていたんですね。だったら、自分でやるのが逆に一番安心かなと思ったんですね。
「自分がどう映っているかはわからない。でも、どう映ってたっていい」
―― 今までの作品でも、監督自身で役を演じてみようと思ったことはあったのですか?
小林:「これやってみたいな」というのが1回くらいあったかもしれないですけど、まあ、これまでの作品ではないですね。
―― では、演じるという欲求はこの作品だからこそが出てきたと。
小林:欲求っていうよりもね、なんかこう、キャラクターが合っているかなっていう、その程度ですね。だけど、シナリオを書いているときに「あ、これ俺がやってみようかな」って、自分の中から出てきたことはたしかなんですよ。ただ、監督しながら演技をするっていうやり方もよくわからなかったし、だから、最初はいろいろほかの役者さんをキャスティングもしていたんですよね。
―― 普段は、監督が俳優さんの演技を見て「OK」とか「もう1回」とか判断して進められていくと思うんですけど、今回、監督自身がカメラの前に立たれた場合は、どのように撮影を進めていったのでしょうか?
小林:今までカメラのうしろにいて監督としているときは、基本的に全部ワンテイクなんですよ。役者が失敗していると思ってようが、うまくいったと思っていようが、芝居を2度、3度とやってもらうってことはほとんどないんです。もちろん、カメラとか技術的な部分でのリテイクはあるんですけど、演出的な部分でのリテイクは、あったとしても1回の撮影で1度くらいですね。そのためにリハーサルもしっかりとやっているんで、役者にも「1回しか回さないよ」っていうのはいつも言っているんです。じゃないと、映画のフィルムってすごく高いんでね、ビデオのつもりで「監督すみません、もう1回お願いします」って言ってこられるとキリがないんですよ(笑)。そういうこともあって、多少間違っていてもOKを出すんです。アフレコの場合はセリフを間違えていてもアフレコでなんとかなるし、シンクロ(同時録音)のときも、セリフが別の意味になってしまってなければOKにするんです。そんなにシナリオ主義でもないし、書かれているセリフをそのまま言えっていうほうでもないんですよね。でも、普段はそんなやり方なんですけど、いざ自分がやったら、最初の何日間かはワンカット撮ってもNGを出して「ごめん、もう1回やらせてくれる?」って何度もやりましたね(笑)。だから、ちょっと嫌な気がしたんですよ。監督でいるときは役者さんに「ワンテイクしか撮らない」って言っているのに、自分の場合は「もう1回」って何度もやっているのはやだなあって思ったので、あるときから、なるべくワンテイクでと、自分の中で納得させるようにしたんです。やっぱり、自分がどう映ってるかっていうのはわかんないんですよ。ただ、どう映っているかじゃないんだよね。役に入っているっていうか、その男になっていれば、別にどう映っていたっていいんだってところはありますね。カメラのレンズがこうあったときに、レンズを見るのがいいのか、レンズのちょっと横を見るのがいいのか、それとも下をみるほうがいいのか。ぼくは、それだけの違いで微妙なニュアンスが変わってくるんじゃないかって思っていたんですよ。そしたら、あんまり変わんない(笑)。
―― 典子役の渡辺真起子さんは、どんなふうに役作りを進められたんでしょうか?
小林:まず、撮影に入る前には、役作りをする代わりに、衣裳を全部自分で用意してもらうんですよ。『バッシング』のときもそうなんですけど、衣裳代を渡して「だいたいこれくらいのお金の中で買っといてください」と言って、渡辺さんに自分で買いにいってもらって、その中で「この女はこういう服を着ていたんじゃないか?」とかね、なんパターンか用意してもらって、それをぼくが見て、足したり引いたりするんです。やっぱり、着るものとか髪型でだいたい決まってくるんですよね。あとはもう、現場に入って、具体的な歩き方とか食べ方とかね、彼女が演じているときはぼくは監督でいられたので、そういうことは指示をしていってね。そういう、歩き方の癖とか、具体的な動きからキャラクターって作られていく気がするんですよ。頭の中で「こういう感じ」とか考えて役者と話をしても、なかなかそれが具体的にはならないんですよ。実際に具体的に指示していかないと、人物造形というか、キャラクターを作るというのはできないですよ。特にぼくの場合は歩き方ですね。「もっと歩幅を小さくして歩いてくれ」とか、普通じゃダメなんですよね。普通じゃなくて、ちょっと違う。そこらへんから彼女なりに解釈していって、それでほかの動きが決まってくるっていうかね。
ロカルノ国際映画祭表彰式にて、グランプリ受賞作に贈られる豹の像を持った小林監督(右)と主演の渡辺真起子さん(左)
―― ロカルノ国際映画祭ではグランプリほか3賞を獲得されました。日本人がこの作品を観ると、実際の事件を想起したり、犯罪報道のあり方を考えたりすると思うのですが、海外ではそういう見方はないのではないかと思います。その中で、作品がどのように捉えられたと監督自身はお感じになっていますか?
小林:実際に日本であったことをモチーフにしているというのは、海外版プレスのディレクターズ・ステートメントでも書いたんですね。『バッシング』のときも同じようなスタイルだったんですけど、『バッシング』のとき「ああいったことは実際にあったことです」って書いたら、むしろわかりにくくなってしまった。すごく不条理な世界、あり得ない話だと受け取られたんですね。でも、今回の『愛の予感』は、日本だけで起きている話ではなくて、どこでも起きている話なんですよ。アメリカでも、拳銃を持って学校に押し入って殺しちゃう事件なんていうのが起きているでしょ? 日本の事件とは違って1対1ではないけれど、やっぱり少年少女の犯罪っていうのは世界中で共通していて、子供が友達を殺したりなんかするほうが多いんじゃないですか。アメリカなんかは徹底的な格差社会だから、そういうことも裏側にあるのかもしれないし。つまり、映画って、実際の事件をなぞるだけではなくて、そこにどのくらい普遍性を持たせるかということなんですよ。『バッシング』も『愛の予感』も、ドキュメンタリーや実録物じゃないんですから。
―― 最後に、日本での公開を前にしたご心境をお願いします。
小林:舞台あいさつがあると必ず言っているんですけど、この映画は体調に左右されやすい映画なんですよね(笑)。寝てしまうか、最後まで食い入るように観ているか、どっちかなんです。それはもう、観た人それぞれだと思うんですよ。これまでに、ロカルノと、ハンブルグ映画祭とで上映に立ち会っているんですけど、ロカルノでは良かったけど、ハンブルグはダメなんじゃないかと思っていたんですよ。さすがに寝る人はいないだろうけど、途中で出て行っちゃう人はいるんじゃないかと思っていたら、みんな最後まで観てくれて、最後には拍手をしてくれたんですね。だから、映画がどう観られるのかっていうのは自分でもよくわからないんです。でも、緊張感を持って観ている人が圧倒的に多くて、それがすごく驚きなんですね。だから、果たして日本ではどういうことになるのかというのが、楽しみでもありますね。
(2007年10月9日/モンキータウンプロダクションにて収録)