『真夏の夜の夢』中江裕司監督インタビュー
都会での恋に疲れて子供のころに過ごした世嘉冨島(ゆがふじま)に戻ってきたゆり子は、幼いころに出会った島の精霊(キジムン)のマジルーと再会する。村長の息子の結婚式を控えて島が慌ただしさを増す中、ゆり子の不倫相手の敦や、その妻の梨花まで島にやってきて、島に騒動が巻き起こる。ゆり子と島を守るのがマジルーのつとめ。マジルーはゆり子のために“恋の秘薬”を使うのだが……。
シェイクスピアの同名戯曲を原作に、舞台を沖縄に移した『真夏の夜の夢』は、これまで『ナビィの恋』や『ホテル・ハイビスカス』など、沖縄を舞台にした映画を作り続けてきた中江裕司監督の最新作。
豊かな自然に覆われた小さな島で、人間とキジムンが繰り広げるのは、愉快で楽しい“幸福の物語”。しかし、その中に沖縄の直面する“現在”も顔を覗かせています。
沖縄にこだわる中江監督が新作に込めた想いは? 映画公開を前にお話をうかがいました。
中江裕司(なかえ・ゆうじ)監督プロフィール
1960年生まれ、京都府出身。1980年に琉球大学農学部に入学し沖縄に移住、同大学在学中より自主映画を制作する。1992年に沖縄で製作されたオムニバス映画『パイナップル・ツアーズ』の1編「春子とヒデヨシ」を監督して日本映画監督協会新人賞を受賞。以降も沖縄を拠点に映画を制作し、1999年公開の『ナビィの恋』が大ヒット。2002年には『ホテル・ハイビスカス』がベルリン国際映画祭に出品されるなど、国内外で高い評価を受けた。映画以外にも、TVドキュメンタリーやミュージックビデオ、CMなども数多く手がける。また、閉館した沖縄の映画館を“桜坂劇場”として復活させ、運営をおこなっている。
ほかの監督作に『白百合クラブ・東京へ行く』(2003年)、『恋しくて』(2006年)、『40歳問題』(2008年)など。
「島の強さが、自分の中のモチベーションを気にするようなレベルではなかったですね」
―― 『真夏の夜の夢』はシェイクスピアを沖縄でやるというユニークな試みだと思いましたが、この企画はどのようにスタートしたのでしょうか?
中江:勝手に進んでいたんですよ(笑)。ぼくの映画は、ぼくの奥さん(中江素子さん)が脚本を書く場合が多いんです。それで、ぼくが『恋しくて』(2006年)という作品を撮影しているころに、プロデューサーとうちの奥さんとの間で、この作品の話が進んでいたんです。ぼくは、なんとなくやっているのは知っていましたけどまったくノータッチで、『恋しくて』が終わったあとに「次はこれでどうですか?」と言われて、そのときはもう第1稿ができていてという状況でしたね。
―― 脚本を読まれてどんな印象を持たれましたか?
中江:まず脚本を読んで、そのあとで原作を読んで、すごく面白いなと思いましたね。原作も脚本も、人間と妖精とうまい具合に共存しているんですよね。それが特別なことになってなかったところが面白くて「これならやれるな」と思って、そこからぼくも脚本に入って直していったんです。うちの奥さんが書いていたのは、映画としてできあがったものより、もうちょっと原作に近かったんです。映画のキジムンのマジルーというのは原作では妖精のパックですけど、最初の脚本ではパックがあんまり積極的に関わらずに、狂言回しみたいに出てたんですね。だけど、ぼくはマジルーにひじょうに惹かれていたので、もうちょっと物語に深く関わらせようと思って、ゆり子とマジルーの物語にしていこうと思いまして、いまのようなかたちになっていったんです。
―― 撮影は伊是名島でおこなわれたそうですが、伊是名島を選んだ理由というのは?
『真夏の夜の夢』より。柴本幸さん演じるヒロイン・ゆり子が東京から世嘉冨島(ゆがふじま)へと戻ってくる
中江:豊かな森と山があるんですよね。でっかいガジュマルの木があったりとか圧倒的な自然があるので、それが大きかったですね。ほんとは、前に『パイナップル・ツアーズ』(1992年)で1回撮っているので、同じ島で2回撮るというのは自分の中のモチベーションを維持できるか不安だったんです。だけど、そんなことではなかったですね。自分の中のモチベーションが維持できないなんて、所詮はぼくの問題でしかないじゃないですか。そんなことを気にするレベルではなかったですね、島の強さというのが。いくつかほかの島を回りましたけど、伊是名以外にはなかったです。
―― 幻想的な映像がこれまでの監督の作品に比べて多いような印象が受けたのですが?
中江:光はものすごく捉えようとしましたね。「光、光、光」と、つねに光ばかり追っかけてて、前から光にはうるさいんですけど、今回は特に徹底していました。だから、違うとしたらそこですかね。あとは、精霊の話なんで、精霊というのは木とか山とか自然とかの象徴になるわけじゃないですか。だから、どうしても木とか山とか自然を撮るということになりますよね。そういうものを撮るということは、光が微笑んでくれないときれいに撮れないので、それを待つことになって、スタッフはそれで大変な思いをしましたけど(笑)。
―― 山頂とか崖の上での撮影は、かなり困難だったのではないでしょうか?
中江:スタッフはみんな大変だと言うんですよ。でも、ぼくは全っ然そう思わないんです(笑)。ぼくは山に走って登れる人なので、周りから「自分と比べてはいけない」ってよく言われるんですけどね(笑)。みんな「なんとかほかのところでやれないの?」って言うんですけど、無理なんですよ。ぼくは、島にある山に全部登っているんですよ。たぶん、島の人でも全部の山に登った人はいなくて、ぼくだけだと思うんですけど、伊是名島には楽して登れる山なんてないんです。だから、しょうがないですよね(笑)。
「ゆり子とマジルーは、切ることができない関係だと思っています」
――中江監督の作品では、沖縄の方と沖縄以外の俳優さんが共演されることが多いですが、単純に沖縄の方の役を沖縄の俳優さんがやるというわけではないんですよね。
中江:単純にそういうことではないですね。映画が面白くなるためには、混ざらないといけないんですよね。東京を中心に作られている映画って、どうしても東京の役者さんとかタレントさんとかが中心になって作っているじゃないですか。だから、なんとなくみんな共通の概念の中でやっていて、混ざっているようで実は混ざっていないんですよね。そこに沖縄の役者が入ったりとか、ぼくの場合は素人も使うので、東京の役者もその演技が通用しなくなるし、そこで面白さが生じてきて、どっちも甘えるわけにもいかないし、面白くなるという構造があると思います。
―― 主人公のゆり子を演じた柴本幸さんは、どんなところが起用の決め手になったのでしょうか?
中江:存在感があるんですよね。島の子という設定なので、野生の血みたいなものを感じられない人にはできないと思っていました。彼女にはそういう存在感を感じたんです。
―― マジルー役の蔵下穂波さんは、『ホテル・ハイビスカス』(2002年)にも美恵子役で出演されていますけど、今回はオーディションを受けて出演されたそうですね。
中江:ええ、最初は全然ダメだったですね(笑)。すごく腑抜けた顔をして2次オーディションくらいに来て、ぼくは親みたいに見ているので「あ、こりゃもうダメになっているね、もう2度と映画に出られないね」って思っていました(笑)。でも、演技をやらせてみたらそれなりにできるんですよ。オーディションは1次、2次、3次、4次と何回もやって、そのたびににハードルが違うんで、2次のハードルならとりあえずクリアしていたし、やっぱり平等に見るのが一番いいので、無理やり落とすのもなんなんで「最終的には残らないだろうけど、とりあえず」という感じで選んでたんですね。それで、3次も「なんかダメなんだけどまあいいか」みたいな状況だったんですけど、最終オーディションのときに全然変わりましたね。それはビックリしました。穂波は、はっきり言えば普通の役者じゃないんですよ。演技をしないで、登場人物になれるかなれないかだけなんですよね。たぶん、マジルーって人間の役じゃないので、最終オーディションになるまではすごく理解しづらかったと思うんですよね。東京のプロダクションの子も含めて最終オーディションをやっているんですけど、ほかの子はマジルーとはなにかということを理解して、それを演技しているんですね。それでそれなりのものを見せてくれるわけですよ。穂波だけはそういうレベルではなくて、最終オーディションのときにはマジルーになってたんですね。
―― マジルーになるまでにそれだけの時間がかかったということなのでしょうか。
中江:そうですね。不思議な女優なんで『ホテル・ハイビスカス』のときもそうなんですけど、できないときはできないんですよ。役を捕まえないとできなくて、全然ダメなんです。でも、昔から彼女はどこかで「わかった」って言うんですよ。そしたら絶対にできるんです。それで2度とできなくなることはないんです。穂波はね、いまだに『ホテル・ハイビスカス』の美恵子のセリフを全部言えるんです。もちろん、この映画のセリフもすべて言えます。1回その役になったら、永久に自分の役柄として美恵子もいるみたいだし、いまはマジルーもいるみたいなんです。いまふたつ自分の守備範囲としてある。「これを増やせれば自分は女優になれる」って言っているんで、ちょっと怖ろしい(笑)。でもほんとにそうみたいなんですよ。こっちを引っ張り出して、あっちを引っ張り出してって、わからないでしょ? ぼくみたいな凡人にはわからないんですよ(笑)。『ハイビスカス』のときは、ほかにも素人の子たちとやっているので、ほかの子供たちもなったつもりで演技をするんじゃなくて、なるんですよね。だから、それが当たり前だと思っていましたけど、穂波はそれを6年経っても維持できる。それはビックリしますね。さすがにもう子供じゃないからできないだろうって思っていましたけど、なにも失ってなかったのかって。その代わり、なにも得ていないんですけど。相変わらず勉強はできないし、字は書けないし(笑)。
『真夏の夜の夢』より。平良とみさん(中央)・進さん(左)の夫妻が精霊の王と女王を演じる。右は蔵下穂波さん演じる精霊のマジルー
―― 平良とみさんと進さんのご夫妻が、精霊の王をとみさんが演じて、王の妻を進さんが演じるという、男女が逆になっていますね。マジルーも「オレ」と言っていたり男の子っぽいのを蔵下穂波さんがやっていたり、男女を逆にする意図があったのでしょうか?
中江:とみさんと進さんは、当然とみさんのほうが歳も上だし、演技にしても貫禄があるわけですよ。進さんのほうは、どちらかというとちょっとエキセントリックな役がうまいんです。だから、進さんが王様でとみさんが女王様だと、なんかうまくいかないんですよね。たぶん、とみさんが王様をやって、進さんが見た目があんななのにおカマっぽくやるのがおかしいんですよ(笑)。理由はそういうことです。穂波のほうは、キジムンなんで男の子でも女の子でもないので、男の子でもよかったんですよ。男の子も捜したし、最終オーディションは男の子のほうが多かったですからね。ただ、あまりカテゴリー分けをするのが好きではなかったですね。ぼくは「あなたは男だから、あなたは女だから、あなたはなになにだから」みたいなことがあまり好きではないので、どうでもいいじゃんって。ちなみにぼくはオカマの人によく好かれます。ポッチャリした感じがとっても好きみたいですよ(笑)。
―― ゆり子とマジルーの関係が、友情でもあるし、男の子と女の子への恋愛に近い憧れみたいなものも感じたのですけど、監督の狙いとしては?
中江:これを恋愛みたいにとる人がいたら、それはそれでいいし、友情ととる人がいれば、それはそれでいいと思っていました。ぼくの中では、ゆり子とマジルーっていうのは切ることができない関係だと思っています。恋人同士や夫婦だと、切れるじゃないですか。ぼくの中ではゆり子とマジルーはどちらかというと肉親に近い、兄弟くらいのイメージがあるんです。離れ離れのところで育った兄弟みたいな。どこかで絶対に切れない存在、もっと簡単に言えば、親ですよね。親がいるかいないか、子供がいるかいないかは、生きていく上で大きく違うと思いますね。絶対に見捨てない人がいる、見捨てることができない人がいるというのは、やっぱり強く生きていくことができるし、肉親じゃないそういう存在がいてもいいわけじゃないですか。そういう存在がいたほうが人にとって幸せだろうなって思いましたね。それは、人と人との関係だけではなくて、土地との関係とかもそうで、いま住んでいるところっていうのは切ってしまえるわけじゃないですか。でも、自分の血のあるところって永久に切れないんですよ。そういうところをちゃんと持っている人と持っていない人の違いって大きいと思うんですよね。マジルーってそういう存在でもあると思うんですよ。土地とか、もうなくならないもの、失くせないもの。いま、東京の社会を見ていると、ほんとは失くせないものとかなくならないものって全員にあるわけですよね。でも、そういうことを全部ないことにして生きているので、みんな切なくなっていると思うんですよね。だから、自分が守るべきものとか、絶対失わないものとか、そういうものがあるっていうことを思い出す。それは当たり前のことなんですけど、当たり前のことをもう1度思い出すことが大事だと思うんです。
「ぼくの中にも、もう沖縄は滅びるかもしれないという気持ちがあった」
―― 今回の作品では、特に後半で島から人が減っている現状というのがストレートに出ている印象があったのですが、そういう部分はどの段階で加わっていったのでしょうか?
中江:うーん……たしか最初のシナリオからあったと思います。
―― では、シェイクスピアの話を使って島の現在を描くというような意図が、初期の段階からあったということですか。
中江:そうですね。たぶん、ぼくの奥さんの中にも、ぼくの中にも、もう沖縄は滅びるかもしれないという気持ちがあったんじゃないんですかね。ぼくは沖縄に行ったのが30年くらい前なんですけど、そのころは沖縄って独自性があったし、いまよりもっと貧しかったですけど、面白かったですよね。でも、その沖縄もどんどん本土化していっている。本土化しているというより、世界中がアメリカの合理主義みたいになっていっている中に沖縄も入っていて、どんどん疲弊しているというか、つまらなくなっていって、沖縄の意味みたいなものがなくなっていっている現実があるんです。そのことに対しての想いはありましたね。そうやって自分たちの価値観を売り渡していったのは、ウチナンチュ=沖縄の人間でもあったわけですからね。
―― 『ナビィの恋』(1999年)や『ホテル・ハイビスカス』など、以前の作品では沖縄の素晴しさや魅力を描くことが多かったと思うのですが、今回それと違ったところを描いたというのは、なにか変化のきっかけとなることがあったのでしょうか?
中江:でも、『ナビィの恋』にしても『ホテル・ハイビスカス』にしても、1度も「沖縄ってなに?」ということを描こうとはしていなかったと思うんです。『ナビィの恋』だったら、長い年月のお婆ちゃんの恋を描こうとしていたと思うし、『ホテル・ハイビスカス』は「子供というものはなに?」ということを描こうとしていた。その背景に沖縄があったと思うんですけど、今回は少し「沖縄ってなに?」ということを描こうとしたと思うんですね。だからそこに触れたんだと思いますけど、じゃあなぜ沖縄というものを描こうとしたかと言ったら、やっぱり、現実的に沖縄も沖縄らしきものを段々忘れ始めている気がしたからだと思います。
―― 『ナビィの恋』や『ホテル・ハイビスカス』に沖縄の魅力を感じられた方は多いと思うんですけど、それに対する反動のように「それだけではないんですよ」というメッセージも込めたかったということなのでしょうか?
中江:いや、反動はないですね。『ナビィの恋』にしても『ホテル・ハイビスカス』にしても「沖縄って素晴しい」って受け取った方がいたら、それは受け取った方の問題で、それに対してぼくがどうのって言えないですよ。映画って受け取ったお客さんのものなんで、お客さんが「素晴しい」と思っているのに「そうじゃない」みたいなことはやっちゃいけないと思うし、別にしているつもりもないですね。なんて言うんでしょうかねえ……今回も、どこかでは「沖縄は素晴しい」と思っていると思うし、だけど否定的な要素が少しは入っているということですかね。沖縄では全国版とは違ったポスターやチラシを作っているんですけど、そこで「オレ様は、島を守る最後のキジムン お前が忘れたら消えてしまう」というコピーを使っているんです。たぶん、前だったらこういうコピーは使わなかったでしょうね。「消えてしまう」ってネガティブな言葉じゃないですか。ネガティブな言葉は印象が強くなってしまうので、使わなかったですよね。でも、もうそういうふうに言わないといけないのかもしれないという気はしていたかもしれませんね。時代がちょっと変化しているというのはあると思います。
―― 沖縄版のポスターやチラシというのがあるんですか?
中江:ええ、『真夏の夜の夢』ってすごくいいタイトルなんですけど、どこかヨーロッパの映画って感じになってしまうので、沖縄の人たちにはなんとなくピンとこないんですよ。だから沖縄の人たちがピンとくるタイトルやヴィジュアルってどういうことだろうって考えて、沖縄では『さんかく山のマジルー 真夏の夜の夢』というタイトルにして、ポスターやチラシでもマジルーの写真を大きく使っているんですね。「マジルー」って沖縄の昔の人の名前なので、タイトルに「マジルー」って入っていると「これは沖縄の映画だな」とすぐわかるし、マジルーの髪型もカンプウといって沖縄の髪型なんですね。だから沖縄の映画だとわかるんです。沖縄で公開するときには、沖縄の人たちが自分たちの映画だと思えることがすごく重要なことなんですね。
―― では最後になりますが、映画をご覧になる方へのメッセージをお願いします。
中江:「ひとりで生きているんじゃないんだよ」ということですかね。それは「ひとりで生きているわけではないから、大丈夫だよ」って意味もあるし「ひとりで生きているんじゃないから、ちゃんとしなきゃいけないんだよ」ということでもあるんです。「見えてないかもしれないけど、どこかに守ってくれているものがいるんだよ」って。それはご先祖かもしれないし、キジムンかもしれないし、人の気持ちかもしれないし、なにかわからないですけどね。でも、そういう目に見えないものってあるんだと思います。
(2009年6月11日/オフィス・シロウズにて収録)
真夏の夜の夢
- 監督:中江裕司
- 出演:柴本幸 蔵下穂波 平良とみ 平良進 ほか
7月18日(土)より那覇・桜坂劇場、リウボウホールにて先行ロードショー 7月25日(土)よりシネカノン有楽町二丁目、シネマート新宿ほかにてロードショー