『掌の小説』坪川拓史監督インタビュー
病気の妻と暮らす作家。バスに乗って町へと向かう少女。ロシア人の少女に惹かれた青年。そして、凧を揚げる老人……。
2009年に開催された東京国際映画祭で日本映画・ある視点部門に出品されて注目を集めたオムニバス映画『掌の小説』がいよいよ一般公開されます。
原作は文豪・川端康成の同名掌編小説集。4人の監督が描く4本の短編は、それぞれが独立した作品でありながら、桜の木とひとりの老人を共通するモチーフとして登場させ『掌の小説』という1本の映画としての作品世界を作り上げています。
話題作への出演が続く若手俳優・福士誠治さんを主演を迎えた『日本人アンナ』を監督したのは、監督作『美式天然』『アリア』が海外の映画祭で受賞するなど高い評価を得ている坪川拓史監督。『掌の小説』では監督だけでなくプロデューサーもつとめ、作品全体に携わっています。
映画『掌の小説』誕生の背景や、2009年12月に逝去しこの作品が遺作となった名優・奥村公延さんへの想いなど、お話をうかがいました。
坪川拓史(つぼかわ・たくし)監督プロフィール
1972年生まれ、北海道出身。舞台俳優やアコーディオン奏者として活動をしつつ、1995年に8mm映画『12月の三輪車』を制作。1996年から9年をかけて制作した『美式天然』(うつくしきてんねん)が、第23回トリノ国際映画祭の長編コンペティション部門でグランプリとベストオーディエンス賞の二冠を獲得。2007年の長編第2作『アリア』ではフランスKINOTAYO映画祭最優秀観客賞を受賞するなど、世界各国で高い評価を受けている。また、バンド・くものすカルテットでの音楽活動も精力的におこなっている。
「日本のよさを一番忘れかけているのは日本自身」
―― 『掌の小説』ではプロデューサーもつとめられていますが、最初に企画の成り立ちからお聞かせください。
坪川:ぼくはプロデューサーというか言いだしっぺという感じです(笑)。2007年の初めに、あるところから企画を出すように言われまして、長年映画化を考えていた「掌の小説」を提案してほかの監督たちに声をかけたのが始まりです。原作の「掌の小説」は昔から大好きな本だったので。
―― 映画にしたいと思った一番の動機となったのはどんなところなのでしょうか?
坪川:ぼくの以前の2作品(『美式天然』『アリア』)は日本では未公開なんですが、海外では色々な国で上映されておりまして。そこでよく耳にしたのが「日本映画が好きだけど、私たちが観たいと思う日本映画が年々少なくなってきている」という話でした。近年は、日本のものといえばアニメやホラーが主流になっていましたから。そのようなものから日本文化に興味をもってくれる人が増えることは、それはそれでよいことだと思いますが、もともと日本の文化が好きだった人たちが観たい映画とは少し違うようでした。だから「掌の小説」は、そういう人たちにも届けられるものができるんじゃないかと。もちろん、日本の方々にも届けられるものができると考えました。日本のよさをいま一番忘れかけているのは日本自身だと感じていたので。
(文庫本が並んだ中から「掌の小説」を手にとって)「掌の小説」だけこんなにボロボロです。ぼくはあまり純文学を読まなかったのですけど、「掌の小説」には20年ほど前に友人に勧められて出会いました。122編の全てに漂っている空気感はひとつなんですが、美しい詩のような作品もあれば悪夢のような話もあり、川端さんの自伝的な作品もあるという、本当に多くの要素が詰まっていて、また、想像力を刺激されるというか試される話もたくさんあったんです。決して「これは映画になるな」などという軽い気持ちではありませんでしたが、でもいつかやってみたいと思ったのが最初ですね。
―― 原作は小説としても短くて、そのままでは映画には短すぎるところもあると思うのですが、その部分の難しさというのはありませんでしたか?
坪川:「どう膨らまそうか?」とはあまり悩みませんでした。原作はひとつの話がほぼ2ページとか3ページなんですけど、本当に密度の濃い2ページ3ページなので。
―― たくさんの原作の中から「日本人アンナ」を選ばれた理由はなんだったのでしょうか?
坪川:ぼくは以前から戦前の浅草に興味がありまして。「日本人アンナ」は、ちょうどそのころの浅草を舞台にして描かれていたので、初めて読んだときから魅かれていました。あと、ぼくは音楽の活動もしているので、どうしても音楽が絡んでいる話が好きなんです。原作では、アンナは弟たちと一緒に浅草の映画館でロシアの子守唄を歌っているという設定だったので、セリフに頼らずに音楽を絡ませたかたちで表現できると考えたからです。
―― 監督の以前の作品でも映画や映画館が出てきていますね。映画館も監督の作品には大切な要素なのでしょうか?
坪川:そうですね。「日本人アンナ」を読んだときに、主人公の男が夜な夜なアンナを隣の部屋から覗くというシーンが、現実なのか現実でないのか判然としない印象を受けたので、劇中劇のようなかたちで無声映画を入れました。
―― 戦前の浅草には、どのようなきっかけで興味を持たれたのですか?
坪川:実際に体験したわけでは無いのに、懐かしいと感じてしまう想いがありました。ぼくは幼いころから母親の影響で渋い俳優さんが好きだったんですけど、その俳優さんについて調べると、あのころの浅草につながっていることが多かったんです。ぼくは小学生のときから益田喜頓さんが好きで、益田喜頓さんから坊屋三郎さんを知って、そこから「“あきれたぼういず”ってなんだ?」とつながっていくという感じでした。上京したときは真っ先に浅草へ行きました。もうそのころの面影は微塵もありませんでしたけど。
―― では、当時から昔の映画をご覧になったりしたのでしょうか?
坪川:ぼくの育った町には映画館がなかったんです。当時はビデオもあまり普及していなかったですし、だから上京したときには名画座に通って観まくりましたね。ぼくが育ったのは北海道の長万部という小さな町でして、町には廃館になってしまった映画館が一軒あるだけでした。子供のときは毎日その映画館の周りで遊んでいたんですけど、割れた窓から中を覗くと女の人の顔が見えて、みんなでそれを「お化けだあ」なんて言いながら(笑)。1996年に持ち主の方に頼み込んで中に入れてもらったら、館内には昔のポスターがたくさん貼りっぱなしになっていて。『ガメラ』やギターを持った小林旭さん、昔「お化けだ」と騒いでいたのは、映写室の脇に貼ってあった『キューポラのある街』(1962年/浦山桐郎監督)のポスターで、正体は吉永小百合さんでした(笑)。
―― 『日本人アンナ』の劇中の映画館には、そのイメージが入っている感じですね。
坪川:そうですね。福士(誠治)さんが隣の部屋を覗くときに開ける襖の隙間は、ぼくが子供のときに映画館を覗いていたのとちょうど同じくらいの隙間です(笑)。
「福士誠治さんは、古きよき佇まいを出せる素敵な方」
―― 福士誠治さんのお名前が出たところで、福士さんを『日本人アンナ』にキャスティングされたきっかけを聞かせてください。
坪川:ぼくは普段ほとんどテレビを観ないんですけど、『掌の小説』を企画したころ、たまたま「純情きらり 総集編」(2006年放送)を観まして、その中の福士さんを見て「この俳優さんいいなあ」と思ったのが最初です。妻のお母さんもファンだったらしく「知らないの?」と怒られました(笑)。ダメもとで出演をお願いしたのですが、ありがたいことに受けていただけました。ぼくは今まで作った映画は100%当て書き通りに撮れてきたんですが、今回もそうなりまして本当に嬉しいです。
―― 実際に福士さんとお仕事をされていかがでしたか?
坪川:ワンカットワンカットを一緒に話し合いながら作ったので、とても楽しくできました。戦前が舞台なので「やっぱりぼくは昔顔なんですかねえ」と言っていましたけど(笑)。最近の俳優さんは、格好はよくても存在感が軽い感じの人がたくさんいますけど、福士さんには独特の品のよさといいますか、静謐さと存在感がありました。古きよき佇まいを出せるのは素敵なことだと思います。ほんとによい俳優さんですね。とても勘のよい方ですし。あと、福士さんはけん玉がうまいんですよ。最初の顔合わせのときに、第4話の高橋(雄弥)監督がなぜかけん玉を持っていて、それを福士さんが見つけて「貸してください!」って。やたらうまかったですよ(笑)。顔合わせのあとで高橋監督と勝負していました。
―― アンナ役の清宮リザさんはどのように選ばれたのでしょうか?
『日本人アンナ』より。福士誠治さん演じる主人公(右)は、清宮リザさん演じるロシア人の少女・アンナに惹かれる
坪川:リザさんに出会うまでかなり難航しました。何十人もの候補者と会ったのですが、なかなかピッタリな子が見つからなくて……。写真で気に入っても、そのあとご本人に会うと写真より成長していてイメージが変わっているんです。まあ、みなさん成長期でしたからね。最終的にはロシア大使館に協力をお願いして募集してもらったんです。そこにふたりだけ応募があって、そのうちのひとりがリザさんだったんです。実際に会ったら成長しちゃっているんじゃないかと半分諦めながら会ったんですけど、リザさんは実際に会ってもピッタリでした。撮影当時は小学校6年生だったんですが、撮影の半年後にアフレコで会ったら成長してました。
―― それだけこだわったアンナ役には、どういうものを求めていたのでしょうか?
坪川:半分透きとおったような人を、と思っていました。存在感が薄いのではなく、存在感はあるけど輪郭がないような儚い感じ。リザさんはCMの経験はありましたけど本格的な演技は初めてでした。それで撮影前はかなり緊張していたので「大丈夫、セリフは1行だけだから」と安心させて。でも、たったの1行ですがとても大事な1行なんで。そのセリフの撮影時は、福士さんや福士さんの妹役の菜葉菜さんにも協力してもらいながら、何度も練習しましたね。
―― 異色のキャストかなと思ったのが小松政夫さんでした。
坪川:小松さんは、『美式天然』のときに活弁士役で出ていただいて以来、ぼくの作品の常連出演者になってもらっております。ぼくのバンドにゲストで来て歌ってくれたこともあるんですよ。『日本人アンナ』の撮影のときは、ちょうど植木等さんが亡くなられた直後だったのですが、その悲しみをおして参加してくださいました(※1)。
―― 小松さんは、伊東四朗さんと共演したりと、先ほど話にあった浅草の軽演劇とも縁のある方ですね。
坪川:そうですね、小松さんの芸の引き出しはすごいです。前の映画のときも、ぼくが作った小唄をお渡ししたら「これは小唄じゃなくてさのさのほうがいいんじゃない?」とその場でさのさに変えて歌ってくれたり、ミュージカルの話をしていると、パッとその辺の棒を取り上げてそれをステッキに見立てて踊りながらミュージカルナンバーを歌えてしまうんです。最初の映画のときも「活弁士をやってください」と言ったら「どのタイプでやればいい?」って試されました。やっぱり、そこまでの引き出しがあって初めて“芸人”と言えるんですね。ぼくのバンドに来てくれたときも舞台上で大量の持ちネタを披露してくれました。
エノケンさんの真似をしながら「月光値千金」を歌ってくれたんですけど、その歌のあと「ぼくも昔は歌手だったんですよ」と言いながら、打ち合わせにはなかった「電線音頭」から「しらけ鳥」「民謡 歯医者さんのうた」まで歌ってくださいました。小松さんのことは心から尊敬していますし、ぼく、大好きなんです。
- ※1:小松政夫さんは芸能人としてデビューする以前、植木等さんの付き人をつとめていた
「奥村公延さんの最後の名演をフィルムに残すことができたのはよかった」
―― ほかの3人の監督は、どのようにして参加されることになったのでしょうか?
坪川:1話(『笑わぬ男』)の岸本(司)監督とは、ぼくが上京して間もないころに知り合いました。当時、彼は映画学校の生徒で、ぼくはある劇団の研究生でした。岸本さんはホラー物やアクションの激しい作品をよく撮っている方なのでほかの3監督とは少し毛色が違うんですが、ほかの作品の刺激になりつつ、かけ離れずにできる人をと思って岸本さんにお願いしました。彼は今、沖縄を拠点に活躍しているので、海を越えて参加してくれました。
2話(『有難う』)の三宅(伸行)監督とは、ぼくが某映画祭の審査員をやったときに知り合いました。そこに三宅さんの作品がノミネートされていたんです。三宅さんの作品は準グランプリでしたが、ぼくの中ではグランプリだったので、その後連絡をとり参加してもらうことになりました。
4話(『不死』)の高橋(雄弥)監督は、ぼくの前作にスタッフとして参加してくれて、それからの付き合いでした。今回も『掌の小説』全体のチーフ助監督でもあります。1話と2話は各監督に作品を選んでもらいましたが、『不死』は企画当初から4話に置くと決めていて、一時は自分で監督しようかとも思いましたが、高橋さんにお願いしました。
―― 映画全体の締めくくりとなる『不死』を高橋監督にお任せしたのは?
坪川:『不死』は、「『掌の小説』のテーマはなんですか?」と聞かれたら「『不死』を観てください」というくらい大事な作品です。全体の助監督でもある高橋さんは、ほかの3作品を一番間近で、かつ俯瞰で見ていたのでお任せしました。
―― 岸本監督と三宅監督の作品については、原作を選ぶ段階で坪川監督から意見は出されたんですか?
坪川:ほとんどなかったです。1話と2話は、原作では2本の話を1本にまとめているので(※2)「欲張りだねえ」と(笑)。特に2話の『有難う』は素晴らしいと思いました。最初に三宅さんから「有難う」をやりたいと聞いたときに、以前、清水宏監督が映画化しているので(1936年『有りがたうさん』)、絶対に比べられるだろうなと心配しましたが、「朝の爪」を違和感なく取り込んで彼独自の世界に描いていたので驚きました。
―― 4本の作品がそれぞれ独立していながらリンクしていくという構成は、どの段階で決まったのでしょう?
『掌の小説』の締めくくりとなる『不死』は、奥村公延さんが演じる老人・新太郎(右)と香椎由宇さんが演じるみさ子の物語
坪川:それは企画当初からです。ただのバラバラなオムニバス映画にはしたくないと思っていたので。当初は登場人物も出入りさせようと思っていたんです。例えば、1話の主人公が台所にいると3話の「妹」が通りかかってあいさつをする、というような。でも途中で、少々あざといと感じたのでやめました。(奥村)公延さんにだけは、全話に共通して出てもらいました。
―― 4作品をつなぐ役割を奥村さんに演じてもらうというアイディアはどのように生まれたのでしょうか?
坪川:公延さんには、この映画のテーマを漂わせながら全話に現れてほしかったんです。最後の『不死』へと導いてくれる精霊のような感じで。なぜ公延さんに演じていただいたかというと、やっぱり大好きなんです(笑)。実は、撮影のころにはすでに体調が思わしくなかったのですが、出演していただけて本当に嬉しかったです。
個人的な話になってしまうのですけど、1997年のある日、ぼくが京王線に乗っていたときに、公延さんがお連れ様と乗ってきてぼくの真正面の席に座ったことがあったんですよ。話しかけようとしたのですが、お連れ様との会話から察するに、どうやら俳優の趙方豪さん(※3)のお葬式からの帰りだったようで、今日は話しかけてはいけないと思いとどまって、「いつか映画に出て下さい」と念だけを送りました(笑)。それから10年が経って念願叶いまして。顔合わせのときに「実は昔、京王線で……」と言ったら「なんだ、声かけてくれればよかったのに」と。公延さんはかつてジャズドラマーとしても活躍していたので、そのころのお話や、今まで出演した映画の話、貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。アフレコのときにはまだお元気だったんですけど……。
―― 映画の公開前にお亡くなりになってしまったのは残念ですね。
坪川:去年の東京国際映画祭に『掌の小説』が出品されたときにも来ていただこうとしたんですが、ちょうどそのころから入院していらして……。もう少し完成が早ければ、と後悔しています。この間、お別れ会に行ったのですが、その会場でずっと『不死』の映像が流れていて、いろいろな方から「最後にこんな素敵な役をありがとう」と言っていただきました。『不死』の撮影のときには奥様や事務所の社長さんも来てくださって、桜の木の下で公延さんを囲んで記念撮影をしたんです。それがみなさんで撮られた最後の写真になってしまったそうです。亡くなられてしまったのは本当に悲しいのですが、公延さんの最後の名演をフィルムに残すことができたのはよかったというか、そういう気持ちです。
―― 最後に、映画をご覧になる方へのメッセージをお願いします。
坪川:観た人の数だけ感じ方があるように、と作ったので、たくさんの方に観ていただきたいです。観るたびに感じ方も違うと思いますし毎回新たな発見があるような映画ですので、なるべく複数回観てください!
- ※2:1話『笑わぬ男』は小説「笑わぬ男」と「死面(デスマスク)」の2作品を、2話『有難う』は「有難う」と「朝の爪」の2作品を、それぞれ原作としている
- ※3:趙方豪さんは1997年に病気のため41歳の若さで逝去。奥村公延さんとは主演作『三月のライオン』(1992年/矢崎仁司監督)で共演している
(2010年3月3日/都内にて収録)
掌の小説
- 監督:坪川拓史/三宅伸行/岸本司/高橋雄弥
- 出演:吹越満 夏生ゆうな/寉岡萌希 中村麻美/福士誠治 清宮リザ/香椎由宇 奥村公延 ほか
2010年3月27日(土)よりユーロスペースにてモーニング&レイトショー