『たとえば檸檬』片嶋一貴監督・韓英恵さんインタビュー
2011年の日本映画シーンにセンセーショナルな話題を巻き起こした『アジアの純真』。その主演女優・韓英恵さんと片嶋一貴監督が再びタッグを組んで送り出す新作が『たとえば檸檬』です。
『たとえば檸檬』はふたりの女性が主人公。自堕落な母親から過度な干渉を受け息のつまる生活を送る20歳の専門学校生と、引きこもりの娘を抱えて万引きやセックスを繰り返す40歳の商社秘書。ともに“母と娘”の関係に悩み苦しむふたりは、それぞれひとりの男性と出会い、転機を迎えていきます。
有森也実さんと韓さんが演じるふたりのヒロインを中心に、さまざまな人々が交錯していく『たとえば檸檬』は、人格障害など現代社会の歪みを象徴する問題を織り交ぜながら普遍的な“親子”という題材を描き、同時に映画自体がある“仕掛け”によって観客を引き込んでいく、高いエンターテイメント性を持った作品ともなっています。
メガホンをとった片嶋監督と、ヒロインのカオリを演じた韓さんは、どう『たとえば檸檬』という作品に向き合っていたのでしょうか?
片嶋一貴(かたしま・いっき)監督プロフィール
栃木県出身。助監督として若松孝二監督、井筒和幸監督、村上龍監督、岩井俊二監督らの作品に参加し、1995年に『クレイジー・コップ 捜査はせん!』で監督デビュー。監督作に『ハーケンクロイツの翼』(2003年)『小森生活向上クラブ』(2008年)『アジアの純真』(2011年)など。また、鈴木清順監督作品『ピストルオペラ』(2001年)『オペレッタ狸御殿』(2005年)など、プロデューサーとしても多くの作品を手がけている。映像制作会社ドッグシュガー代表。
韓英恵(かん・はなえ)さんプロフィール
1990年生まれ、静岡県出身。10歳のときに鈴木清順監督作品『ピストルオペラ』(2001年)に出演して注目を集める。その後も映画を中心に多くの作品に出演。おもな出演作に『誰も知らない』(2004年/是枝裕和監督)『阿修羅城の瞳』(2005年/滝田洋二郎監督)『悪夢探偵2』(2008年/塚本晋也監督)『悪人』(2010年/李相日監督)『マイ・バック・ページ』(2011年/山下敦弘監督)『アジアの純真』(2011年)など。
「いい加減、好き勝手に映画を作るのはやめようみたいなところがあってね(笑)」(片嶋)
―― 『たとえば檸檬』は『アジアの純真』に続いて片嶋監督のメガホンで韓さん主演の作品ですが、最初から韓さん主演の企画としてスタートしていたのでしょうか?
片嶋:そうですね、今回は英恵と有森也実さんのふたりでやろうと。『アジアの純真』が終わったあとにいろいろな脚本家と企画を進めていて、今回の脚本の吉川(次郎)さんとは前に『小森生活向上クラブ』(2008年)という作品をやっていて、そのあとにコメディタッチでそれなりに予算のかかるようなものを企画したりしていて、それがなかなか進まなかったんですよ。それで、今度はちょっとシリアスなものをやりたいなということもあって“家族の問題”をテーマにやってみようと……。『アジアの純真』では、世界に対して「こういう政治スタンスがあるよ」みたいなことをリリースするような自覚があったんで、今回は世界のどこにでもある人間の関係性の最小単位として“家族”というものがあるなら、それをきちんと描こうということで吉川さんと始まったんです。そうすると、家族の最小単位と言ったら親子で、親子には“父と息子”とか“父と娘”とかいろいろありますけども“母と娘”の関係性というのをぼくらの中で問題意識を持って描けないかということになったんです。そして“母と娘”をやるなら、娘は英恵で、母親は『小森生活向上クラブ』に出ていただいた有森也実さんが浮かんできて、ふたりで当て書きしてこうということで始めたんです。なんで英恵かっていうのはね、ぶっちゃけ近くにいるから(笑)。別の取材でそう話したら「そういう話をされても困る」って言われちゃったんだけどね(笑)。(※韓さんは片嶋監督が代表をつとめるドッグシュガー所属)
―― では、最初のアイディアでは有森さんと韓さんの演じるふたりのヒロインがそのまま母娘という設定だったのですか?
片嶋:そういうかたちから入っていったと思います。そのあと脚本を作成する過程でいろいろアイディアが出てきて、境界性人格障害の問題とかも入れて、最終的に完成した映画のようなかたちに落ち着いていったんですね。
―― 韓さんは“親子の物語”という題材についてどのように思われましたか?
韓:私は、親子が題材ということよりも、映画に出てくる境界性人格障害というのがよくわからなかったので、まずそっちからでしたね。心理の先生に聞いたりとか、なぜ境界性人格障害というものが生じるのかということを調べたんです。そうすると、母親から虐待とかを受けていると、自分も大人になったときに気づくと同じようなことを子供にしてしまったりとか、幻覚を見てしまったりとか、そういうことがほんとにあるということを知っていって、私はそれまでなにも知らなかったので、親子の話というより境界性人格障害の話というところから入っていったんです。
―― そういう人格障害などの重いテーマを扱いつつも、作品としては観客をある種のトリックにかけるようなエンターテイメント性も強い作品になっていると感じました。エンターテイメント性を強く出すという意図はあったのでしょうか?
片嶋一貴監督
片嶋:もちろんありました。いい加減、好き勝手に映画を作るのはやめようみたいなところが自分の中であってね(笑)。
韓:アハハハハ(笑)。
片嶋:『小森生活向上クラブ』にしても『アジアの純真』にしても、自分の「こういうことをやりたいんだ!」というのがどんどん先に立っていて、それはそれでなんの後悔もないんですけど、どこかで観客が置き去りにされているというのを実感として感じていたわけなんです(笑)。だから、次にやるものは緻密にストーリーを築きあげて、観客がどう思うのかということも考えながら、エモーションの引っ張りみたいなものをサスペンスも含めながらきちんとまとめていこうというような意図で取り掛かりました。……とは言っても、できあがるとまた「いつもの片嶋節ですね」と言われたりするんですけどね(笑)。
韓:私もいま聞いてて「えっ!」って思いましたよ(笑)。「ホントかよ!」みたいな(笑)。
―― 室井滋さんのようにテレビなどにもよく出演している俳優さんを何人か起用されていますね。それもエンターテイメント性を意識しての狙いでしょうか?
片嶋:そうですね、それは確実にありますね。
―― 韓さんは、そういう作品で演じられてどんな感触を持たれました?
韓:あんまり明るい感じのニュアンスじゃないので、そんなにエンターテイメントという感じには思わなかったんですけど(笑)。でも、やっぱり、テレビのドラマとかたくさんの映画に出ている方と一緒にできたのがよかったと思っています。室井さんが私の母親の役だったので、私は室井さんと絡むシーンが多かったんですね。シリアスな場面は必ず母親と一緒でしたし、母親との絡みが一番重要で一番大事にしなきゃいけないって思っていた部分なので、それがほんとに室井さんという現場に慣れていらっしゃる方とできてよかったなって。(綾野)剛さん(石山役)もそうなんですけど、慣れてる方とできたので自分を思いっきり出すことができたんです。
―― 作品の中である種の仕掛けがありますよね。そういう部分で演じる難しさはありましたか?
韓:難しかったところはありますね。その仕掛けみたいなもののためにやらなければいけないところはあったので。ほかの方の演技をよく見たり、そうしないと演じることができなかったんです。
「ずうっとテンションが高いままだったので、ほんとに大変でした(笑)」(韓)
―― 韓さんが演じたヒロインのカオリは、どのような人物として描こうと意図されていたのでしょうか?
片嶋:まあ、見てのとおり、母親の世界から逃れられなくて、悶々として前に進めない子というところからですね。それが石山という男と出会うことで少しずつ心が開かれていくんですけど、どうにもこうにも人生が開けていけないというか。映画で描いていないところもあるんだけど、その描いていないところも想像させるようなあり方を考えていましたね。想像してもらう中で、英恵の20歳のヒロインと、有森さんの40歳のヒロインのふたりの人生が交錯してけばという狙いがあったので。英恵がやったカオリは、英恵が演じればこうなるというのが見えていたからやりやすかったといえばやりやすかった。いつも明るく朗らかな英恵が、緊張感を保てるかどうかっていう(笑)。
―― 監督はそのようにおっしゃられていますけど、韓さんご自身はいかがでしたか?(笑)
韓:ずうっとテンションが高いままだったので、もうほんとに大変でした(笑)。つらかったです、精神的に。「参りました」ってくらい怒ったり、泣いたりばっかりでしたね。最後まで1回も笑ってないんですよ。狂ったみたいになって笑ったことはあるんですけど楽しい笑顔はなかったし、よく「あの撮影はどうでしたか?」って聞かれるんですけど、ほんとにテンション高いままであんまり記憶がないっていうのが本音で(笑)。それくらい毎日終わるのが早かったです。ずっと怒ってるか泣いてるかで1日が終わってて、監督の「もう1回」という声に、なんかもうイライラしてましたね、毎日(笑)。
―― カオリって、特に映画の前半ではなにかに脅えているような印象を感じたのですが、それは意識されていましたか?
韓英恵さん
韓:常に言われていましたね。脅えてるようにというか、怖いというか「もう少しそういう感情を出して」みたいな感じのことは常に言われていた気はします。
―― もうひとつ、カオリって男性から見たら放っておけないタイプの女の子かなって感じがしたんですね。綾野剛さんが演じる石山が、出会ったときから彼女のことを気にするのがよくわかるというか。
韓:あんまりそこらへんは頭に入れてなかったですね。でも、たしかに石山とクラブで初めて会うところで、カオリはずっとお箱に入れられて育ってきた子っていうのがわかるんですよね。いままでクラブに来たことないし、そういうところでなんか脅えているのを見て惹かれる……のかなあ。私、男の子じゃないんでわからないんですけど(笑)。どうなんですかね?
片嶋:カオリと会ったときっていうのは、石山にとってもちょっとどん詰まりみたいになってるんだよね。そういうときにカオリが現れて、石山にとってもなにかが切り開かれていくんじゃないかって思ったのかもしれない。
―― 監督はカオリの“放っておけない感”みたいなものが出るように韓さんを撮ろうという狙いはあったのでしょうか?
片嶋:特にはないですね。まあ、顔がどんどん変わってきていたのはわかっていたし(『アジアの純真』のポスターを見ながら)これを撮ったとき18歳ですよね。それから2年経って、20歳になった英恵というのがいて、それでカオリをやったら、つらそうなところも出るし、かわいいところも出るみたいなところかな。
―― そのカオリの人間像って、ストーリーが進む中で次第に変化していきますよね。
片嶋:うん、やはり石山という男と初めて普通に付きあいはじめるんだけど、そのあともいろいろあって、あの辺からもういままでのピュアなカオリではなくなっているというかたちにはしていましたよね。
―― 撮影はストーリーに沿った順撮りですか?
片嶋:ではないです。英恵の最初の撮影は、石山と出会ったあとで髪型がパーマになってるシーンだったから、ずいぶんあとのほうから撮ってる。
―― ということは、韓さんは性格が変わったあとのカオリから演じはじめていらしたわけですね。
韓:もう、パーマがかかったところは悪ですよね(笑)。悪魔みたいな感じになっていて。でも、純粋なときよりも怒りとかそういうものが出せたんじゃないかなとは思っています。
―― そのあとでまた最初のほうのピュアなカオリを演じるのに難しさはありませんでしたか?
韓:でも、心の中にあるお母さんに対する憎しみだったりとかって、石山と一緒になる前もあともあんまり変わってなくて、そういう部分ではあんまり苦労はしてなかったと思います。あのパーマは毎回巻いてたんですけど、1日の中でもパーマかけてたりストレートになったり行ったり来たりした日もありましたし。
片嶋:ほんとに演じ分けってことだ。
韓:いや、あんまり演じ分けってことは考えてなくて。……『アジアの純真』とは違って、別々の子をふたり演じるとはまた違うので、あんまりそこらへんは考えてなかったっていうか(笑)。(※『アジアの純真』では韓さんは双子の姉妹を一人二役で演じている)
―― 演じられる気分としては、カオリの中には最初からああいう部分があったと。
韓:石山と出会って、ちょっと石山に汚染されたっていうか(笑)。そういう部分はたぶんあると思いますね。
片嶋:まあ、石山の役割はカオリを自由にするっていうことで出てきているわけだから、いままでの閉ざされた世界の扉を開けてくれたのが石山だったわけで、そうすると、いままで閉じ込められていたものが出てきているってことですね。
―― 石山との出会いがカオリの変化の理由ではありますけど、映画の中盤で起こる出来事が切り替えのスイッチみたいに変換点になっているのかなという印象もあります。
片嶋:あそこでカオリに罪の意識というものが初めて出てきちゃうんだよね。つまり『アジアの純真』じゃないけど、自分は被害者だと思っていたら加害者になっちゃった。そういうところから“生きる”ってことのつらさというのを身にしみて感じるようになったんじゃないかな。そういう見方もできるね。
「ラストはひとつの意志は見せている」(片嶋)「救われたって感じはしますよね」(韓)
―― 『アジアの純真』のお話が出たところで、ちょっと『アジアの純真』との対比でお聞きしたいんですけど、モノクロだった『アジアの純真』とはまさに対照的に『たとえば檸檬』は色彩が美しいですね。冒頭のシーンもすごく印象的でした。
韓:有森さんが化粧を塗っているところですよね。あそこはすごくきれいでしたよね。
片嶋:色は今回は相当気を遣いましたよね。いままでの自分のキャリアにはない映像をしっかりと作っていくんだっていうつもりが強くあって、撮影の釘宮(慎治)と「こういう感じで作っていきたい」と、照明も含めてね。仕上げのときもカラリストも含めて、荒れた画面の中で黒をベースにキッチリと絞り込んで、そこに色がワーッとにじみ出るようなね、そういった映像ができたらいいなとずっと考えていましたね。
―― ポスターに使われている雨の中でカオリが傘をさしているシーンもすごく赤の色が目を引いて、計算を重ねて画面を作りこまれているのかなと思いました。
『たとえば檸檬』より。インタビュー中でも触れられている雨の中のカオリと石山。傘やカオリの衣裳に使われている赤に注目だ
片嶋:もちろん、天候とかいろいろなところで偶然になるところもありますけれど、狙いというのはわりとはっきりしていましたよね。このシーンはね、雨降らしもみんなでやってるんだよね。プロの雨降らしじゃなくて安藤(光造=ラインプロデューサー)がやってるし(笑)。タンクを借りてきてスタッフがやったりしてるんですよ(笑)。
韓:ここのシーンは雨ばっかで、ビッショビショなんですよ、石山の手が。雨がここだけすごい当たってて(笑)。それからなに言っているか聞こえないし、なにか言われても「え!?」みたいな(笑)。
片嶋:ポンプの音がすごかったんだよね(笑)。
韓:そう(笑)。
片嶋:だから、色については“檸檬”だから黄色がベースなんだけど、赤がちゃんと出るといいなというのは思っていました。だからカオリのマフラーも赤なんですよ。茶色のコートに赤のマフラー。
―― その、カオリが身につけるものの色って、性格が変わっていくにつれて変わっていっていますよね。
片嶋:確実に変わっていきますね。
韓:ちょっとお母さんに似てきてるのかなって。人格障害の話になるんですけど、自分が虐待とかされて育った子ってお母さんと同じようになってしまうっていうことがあるんですよね。だからカオリもドレスを着てみたり、あのパーマもお母さんのパーマなんですよね。そういう部分で、始まりの一歩手前みたいな感じを出せたんじゃないかなと思っています。
片嶋:なんかザラつきって言うかね、ザラついた中に強烈な暴力性みたいな色がガッと出てくるというのは、最初からイメージしていましたね。
―― 色と別の角度で『アジアの純真』と対比すると、『アジアの純真』は世の中にいろいろな歪みがあるのを個人の視点から見ていたのが、『たとえば檸檬』はいびつな世の中のほうから個人を見ているという感じがしました。
片嶋:こういう題材を映画にするということ自体から、いびつ性っていうのが出てくるだろうなと思っていましたよね。まあ、よくよく考えるといままで撮ってきた映画ってどこかいびつな人間は出てくるんですけど、こういう精神疾患というのを扱った映画は初めてなんで、そういう意味ではやりがいのあるテーマだったのかな。
―― カオリと母親って共依存的ですよね。そういう状況って現在の世の中にはけっこう多いのかなあって。
片嶋:そうですね、基本的に依存しあわないとうまく生きていけない人たちの集まりになってしまっているから、そこでいわゆる独立した精神というのが生まれにくいっていうか。だから、そういう社会の歪みがある中でね、ラストは希望を暗示して終わるようにしないとダメだなって思っていましたね。映画の最後はどういうふうにでもできたんでね、絶望的に終わるのもあるんだけど(笑)、そんなつまらないものはないだろうと。
―― あのラストは、前向きではないかもしれないですけど、決して悲観的な終わり方ではないんですよね?
片嶋:うん、ハッピーかと言うと間違いなくハッピーにはなりきれないんだろうが、ひとつの意志は見せているってことですかね。
韓:やっぱり、ずっと母と娘の関係というものに苦しんで過ごしてきて、あそこで救われたって感じがしますよね。
―― それと同時にあのラストは「そういうことだったのか」と腑に落ちる感覚があって、それもひとつのエンターテイメント性だと思ったのと、ちょっと『市民ケーン』(1941年・米/オーソン・ウェルズ監督)を連想するところがありました。
片嶋:『市民ケーン』は、なにかしら意識はしていたかもしれませんね。あれは最後に家族に包まれていたというのを映し出して終わるわけですから、無意識のうちに意識していたと思います。
―― あと、全体で138分というのは映画としてもけっこう長めの時間ですね。
片嶋:長尺ですね(笑)。台本が120ページくらいあったから2時間はいくかなと思っていたんですが、繋いでみたらこのくらいになってしまって(笑)。まあ、プロデューサーも含めて何人かに見せたところ、この尺が退屈でしょうがないとかいうことではなかったので「これはこのまま提出しちゃえ」みたいなところはありましたね。英恵と有森さんふたりだけの話ではなくて、いろんな人生が交錯するような仕掛けになっているし「削るとするならここかな」とか思う部分もありましたが「これはこれでいいんだ」って確信を持って。
―― 決して長すぎるとは感じない、これだけの長さが必要だと感じる2時間越えでした。
韓:それはありがたいですね。ありがとうございます。
―― では最後に、これから『たとえば檸檬』をご覧になる方へのメッセージをお願いします。
片嶋:映画の中で綾野剛がロックバージョンの「きよしこの夜」を歌うんですよ。これがなかなか面白くて、みんながどう思うかわからないですけど……。実は「きよしこの夜」って曲の1番の歌詞は“すくいの御子が御母の胸でやすらかに眠る”という内容なんですよね。この映画は、お母さんの胸の中でやすらかに眠れなかった人たちの話なんで、彼のあの歌がこの映画をひとつ象徴しているんです。あのシーンこそ長くって、全部歌わずに1番だけでもよかったかなとは思うんだが(笑)、しっかりと見せ場にはなってると思う。ぜひ劇場に足を運んで観ていただければありがたいですね。
韓:撮影が前半と後半とあって、ちょうど真ん中くらいの時期に震災があっていろいろ大変だったんですけど「ここで撮るのをやめてしまったら、いままで半分やってきたことも水の泡になってしまう」と思いながら、結局最後までやることができて、この映画も『アジアの純真』と同じくらい自分の中で自分の限界を見たっていう気がするんです。「ここまで自分が悪になれるんだな」とか再確認してしまったんですけど(笑)、そういうところを楽しんでもらえればなと思っています。母と娘の話で、愛の話で、これを観て自分と親との関係というのを一度改めて考えてもらえればなと思っています。
(2012年11月5日/ドッグシュガーにて収録)