「大阪バイオレンス、3番勝負」石原貴洋監督インタビュー
ヤクザも怖れるふたりの男の生き方を12歳の少年の視点から見つめる『大阪外道』。
大人となって再会した元・悪ガキ3人組が東西ヤクザの抗争に巻き込まれていく『大阪蛇道』。
餃子工場を営む元・極道が凶悪なチンピラとの出会いにより秘めた衝動を蘇らせる『コントロール・オブ・バイオレンス』。
大阪の下町を舞台に、観客を圧倒する暴力描写を詰め込んだ、3本の映画が東京で特集上映されます。3作品を生み出したのは、新鋭・石原貴洋監督。その作品は、韓国・プチョンやドイツ・ハンブルグなど海外の映画祭でも上映され「大阪バイオレンス」という新たなジャンルとして注目を集めています。
大阪を拠点に「暴力映画」を送り出す石原監督は、暴力によってなにを描き、なにを伝えようとしているのか? 特集上映「大阪バイオレンス、3番勝負 石原貴洋監督特集」の開幕を前に、石原監督にお話をうかがいました。
とてつもないエネルギーを感じさせる大阪発の新たな脈動に、ぜひ触れてください。
石原貴洋(いしはら・たかひろ)監督プロフィール
1979年生まれ、大阪府出身。大阪ビジュアルアーツ専門学校・放送映画学科で学び、同学校卒業後の2004年より子どもを主人公にし地域に密着した「小学校映画」を9本制作する。その後『VIOLENCE PM』(2010年)を皮切りに『大阪外道』(2012年)、『大阪蛇道』(2013年)、『コントロール・オブ・バイオレンス』(2015年)と、暴力を題材にした映画を連続して制作。『大阪外道』はゆうばり国際ファンタスティック映画祭2012でグランプリを受賞した。また、教育にも関心が高く、さまざまな職業に就いた経験に基づいた講演活動もおこなっている。
「一番贅沢なジャンルは映画だなということに気づいたんです」
―― 最初に、監督が映画作りに興味を持たれたきっかけからおうかがいできますか?
石原:コンパクトに話すと、ぼくが一番影響を受けた映画は『マッドマックス2』(1981年・豪/ジョージ・ミラー監督)なんですよ。幼稚園か小学校低学年であれを観て「映画ってあんなに現実とは違う世界を見せることができるんだ!」ってすごいショックを受けましてね。あと、ジャッキー・チェンの映画も観たりしていましたけど『マッドマックス2』は決定的でしたね。そのあと一旦小説家になろうかと思って、高校生のときはずっと小説を書いていたんですけど、高校2年生のときに山田洋次監督の『学校』(1993年)という映画を観て、映画監督になろうと決意したんです。極端ですね、『マッドマックス2』と『学校』と(笑)。
―― たしかに極端ですけど、監督の作品を拝見するとすごくわかる気がします。幅広い作品をご覧になっていたんですね。
石原:わりとまんべんなく、邦画洋画問わずかたっぱしから観ていたんですよね。それで『学校』に出会うんですけど、やっぱり『学校』というタイトルになると、お堅い話になりがちだと思うんです。でも山田洋次監督がすごいところは「そもそも学校は面白いところなんじゃないか、勉強すること自体が楽しいことなんじゃないか」という根本の根本にたどり着いていて、教えるほうも「教えること自体がこんなに楽しいことはないんじゃないか」というところから始まっている話なんですね。ぼくはこんな暴力映画を作っているんですけど、そのころから教育にすごい興味がありまして、『学校』という映画は「勉強とはなんぞや、学ぶこととはなんぞや」というところにしっかり焦点を当てているのがすごいなあと思ったんですよね。
―― そこで「すごい」と思うだけでなく、監督になろうと思う決め手となったのはどんなところなんでしょう?
石原:決め手だったのは、一番贅沢なジャンルは映画だなということに『学校』を観て気づいたんですよ。世界中の人に観てもらえる可能性もあって、自分の言いたいことを2時間くらいのことに凝縮できて、人の心をすごく動かしながらメッセージ性も入れることができると。ぼくは中学生のときからすごく生意気な屁理屈少年でしてね(笑)。ずっと「教育を変えなきゃ駄目だ、政治を変えなきゃ駄目だ」みたいなことを考えていて、そういうなにか言いたいことを自分なりにエンターテイメントで出したいと思っていたんです。それまでは小説だったんですけど、それが『学校』を観て「こんなすごいジャンルはほかにないなあ」と思って「小説より映画だ」と決心したんですよね。
―― それで高校卒業後に大阪ビジュアルアーツ専門学校に進学されるんですね。在学中には、映画監督としての進路をどのように考えられていたのでしょうか?
石原:学生時代には早くもヤクザ映画にを手を出していて、学生らしくない暴力映画を撮っていたんですよね。それで卒業してから企業に就職するのはやめようと思っていたんです。映画会社に入ったりとか助監督やADにつくのもやめようと思って、自分で作りたいものが多すぎるんで独学でもいいから自分でやっていったほうがいいと思って、映画を作る環境を自分で整えようと思ったんですよ。1年でも2年でも棒に振ってでも、思いっきり働いてお金を貯めて、自分で機材を揃えて映画を作れる環境を作ろうと思ったのが学生時代でした。
「大阪バイオレンス、3番勝負」上映作品『大阪外道』より
―― 学生時代にヤクザ映画を作るというのは珍しいですよね。
石原:学生映画っていうと内面的なものが多いですよね。ぼくはやっぱり『ダイ・ハード』(1988年・米/ジョン・マクティアナン監督)みたいなドカーンが好きだったり『マッドマックス2』が好きだという感覚があって、単純に男の子なんですね。それで、ヤクザ映画というジャンルもぼくからしたらそれと変わらないワクワクするもののひとつなんですよ。邦画だとベタですけど深作欣二監督の『仁義なき戦い』(1973年)や、北野武監督の初期の作品のヤクザ映画たち、特に『ソナチネ』(1993年)ですね。洋画だとマーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』(1990年・米)と『カジノ』(1995年・米)の2本が決定的で、そういう作品を18歳前後に観たのが決定的だったんです。
―― 卒業後にはどういう活動をなさっていたのでしょうか?
石原:遠回りな決断をしたんですけど、卒業してからはまずお金を貯めるというところから始めて、とにかく働きまくりました。仕事を言うと現金輸送車の警備員、料理屋の板前、高級クラブ従業員、ラーメン屋従業員と、主にそんなことをやっていたんですけど、どれもムチャクチャ忙しくて激務だったんですね。でも、それはあえて大変な仕事を選ぼうと思って、ムチャクチャ忙しいところに飛び込んでいったんです。自分を試すというのもあって、仕事は仕事でしっかりやってガッツリ稼ぐ、それで週1回でも2回でも休みの日は全力で映画をやるというスタイルを20代の間はずっと続けていて、20代の間で子ども映画を9本を撮りました。それがぼくの20代で、30代になってから長編の暴力映画を撮るようになったんです。
―― 子ども映画というのは、学生時代に作られていたヤクザ映画とはまたガラッと違っていますね。
石原:ぼくにとってもうひとつ決定的な作品で、岩井俊二監督の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(1995年)という短編があって、ビデオレンタルが始まって借りて観た瞬間に「ああ、新しい映画が来た!」と思ったんですね。それまでの日本映画は子どもの演出をすごくおろそかにしていると思ってたんです。棒読みで喋っていたり、大人の目線で演出しているというのがすごい不満だったんですけど、それが『打ち上げ花火』を観て全部解消されたというか「新しい地平線ができた」と思ったんですね。それで20代は子ども映画を作ることになったんですよ。
―― その9本の子ども映画というのは、具体的にどのような作品なのですか?
石原:『打ち上げ花火』を観たときの鮮烈さが残っていて「ああいう感じ」としか言えないんですけど、子どもが出てくるからといって子どものための子どもに見せる映画ではなくて、子どもが出てくる誰でも観られる映画なんです。大衆的な作り方をしていて「大阪バイオレンス」みたいなネガティブなイメージは一切ないポジティブな映画ですね。明るくて爽やかでスッキリして終わるみたいな、そういう真逆のことをやっていましたね(笑)。
―― ヤクザ映画から子ども映画へと、作品の方向を変えたのはなにかきっかけがあったのでしょうか?
石原:きっかけはですね、学生時代に思っていたことがふたつあって、ひとつは暴力系ヤクザ系をやりたい。そして『打ち上げ花火』で出会ったような子どもが出てくるような映画をやりたい。これがぼくの中のふたつやったんですけど、どっちから手を付けようか20歳のころに死ぬほど迷ったんですよね。それで、そのころ現金輸送車の警備員をしていて、助手席に乗っているときに神の声が聞こえてきて「お前はどっちをやってもいいんだよ」って啓示が来たんですよ。そのときぼくは「どっちもやっていいのはわかったけど、どっちからやればいいんですか」って質問し返したんです。そしたら「本当にやりたいほうからやりなさい」って。そこで本当にやりたいのはどっちかと考えると、まだやったことのない子ども映画だから、こっちからやろうと。でも、まだ質問があって「いずれ、この子ども映画とヤクザ映画を合体してもいいんですか?」と。「合体してもいいけど、それは子ども映画を全力でやりきってから合体させなさい」という答えを貰ったんです。それ以来、神の声は一切聞いてないんですけど(笑)、ぼくはそれを聞いて道がパーッと開けて、自分が納得できるまで子ども映画をやりきろうと。さっきも言ったんですけど、日本映画はドラマ界もそうなんですけど子どもの演出をすごくおろそかにしてると思っていて、ぼくはそれがすごく嫌だったんです。セリフが棒読みだったり表情が硬かったり、全然子どもらしくない。そういう子どもの演出を一遍マスターしようと思って、20代はそれに費やした感じです。それで9本撮って、9本目の『共存時代』(2009年)で自分で納得できたんです。格闘で言ったら自分の流派を見つけられたというか(笑)。それで暴力映画に飛び込んだ感じですね。
「なるべく暴力を振るう理由は自然でありたいと思っています」
―― 2010年の『VIOLENCE PM』以降、子どもの登場する暴力映画を3作作られていますが、それはその「合体させる」というのを実践された作品だったんですね。
石原:そうなんです。意図的に計画していたことで、10年間そのために牙を研いでいたというか。『VIOLENCE PM』と『大阪外道』、そのあとの『大阪蛇道』までがぼくの計画で、子どもとヤクザ映画を融合させようとした映画なんです。『コントロール・オブ・バイオレンス』からは自由の身になった映画なんですよね。
―― これは今回一番お尋ねしたかったことなんですけど、監督にとって映画で描く「暴力」というのはどんなものなんでしょうか?
石原:一言じゃ言えないんですよ。理由がいっぱいあるから挑む価値があるというか……いっぱい言ってしまっていいですかね?(笑)
―― はい、もちろんお願いします。
石原:まず1個目は、暴力って暴走してしまうものだと思うんですよ。どの世界でも組織にはまらない人間というのはいると思うんです。会社員、自営業、ヤクザ、なんでもそうなんですけど、その枠にすらはまらない人間っていて、そういう一匹狼みたいな奴って歯止めが聞かなくなっちゃうことがあると思うんですね。そういうヤケクソさみたいなものが暴力のひとつの本質かなと思うんです。
2個目が、愛するものを守るためにやむなしに使ってしまうもの。これはけっこう反感を食らうんですけど、ぼくはもし大切な人がひどい目にあったら迷わずやり返します。暴力って大切な人が不条理に危険な目にあったときにやむなしに使ってしまうもので、それも過剰に暴走してしまうものかもしれないと思うんですね。『大阪外道』にそういう場面があるんですけど、暴力の世界にいない人でも大切な人を守るためには一線を越えてしまうこともあるんじゃないかなと思います。
3個目は、暴走してしまうということにちょっと近いんですけど、普通に生活している人の中でも触れてはいけない人っておると思うんですよ。それはヤクザじゃなくて餃子工場のオッチャンでも八百屋のオッチャンでもなんでもいいんですけど、すごいエネルギーを秘めている人っていると思いますね。「それに気づかずむやみに触れるとどういうことになるのかわかっているのか? それはすごい危ないことなんだよ」ということを映画で描いているというところもありますね。ぼくの中の「暴力」というのは、そういうことですね。
―― 作品を拝見して思ったのですが、たとえば「食事をする」とか「息をする」みたいに、自然にやっている欠かせない行為ってありますよね。監督の作品における暴力というのはそれに近くて、自然に存在するものという印象を受けました。
石原:それは嬉しいですね。表現としては、なるべく暴力を振るう理由は自然でありたいと思っています。快楽的な暴力はあまり好きではないですし「なぜその人はそうしたか」という理由は、いまおっしゃっていただいたように、ご飯を食べるようなことと一緒のように感じてもらえれば一番いいと思っているんです。『大阪外道』では少年が殴りかかるシーンがあるんですけど、それは暴力を賛美しているわけではなくて「困難があったら立ち向かえ」というメッセージなんです。暴力はやっぱりないほうがいいですし、話し合いで解決するのが一番なんですけど、それでもうまくいかない場合は立ち向かってしまえと。それが結局解決になることもあるという気持ちもありますね。
―― 暴力シーンの演出というのはどのように進められているのでしょうか?
「大阪バイオレンス、3番勝負」上映作品『コントロール・オブ・バイオレンス』より
石原:まず、スタッフ、キャストにぼくが言っているのは「なるべくリアルな暴力描写にしたい」ということなんです。アクション監督も来てくれるんですけど、相手が殴ってきたのをきれいにパーンって払って型をするようなアクションではなくて、胸ぐらを掴んでゴチーンみたいな生臭いものをやりたいと。やりたいのはきれいなアクションではなくて汚いケンカなんです。それは拳銃は使わないし、バットで頭を殴るときはフルスイングでかち割ると。そのためにバットは「当てても痛くないのを作ってください」ってスタッフに頼んで(笑)。なるべく自分の知っているかぎりでリアリティのあるもので勝負をして、自分の知らないことは実際に悪い人に聞くんです(笑)。「やる側、やられる側、どういうもんですか?」と聞いて、正直に教えてもらったとおりの情報を血肉化して出すという感じですね。
―― ちょっとお尋ねしにくいことなのですが、監督ご自身はどの程度ああいうご経験があるのでしょう?(笑)
石原:いやあ、わりと少ないですね(笑)。ぼく自身がそんなにメッチャ暴れていたわけではなくて、台風の目ではないですけど、ぼくの周りが悪いという感じなんですよね。ぼく自身はたかが知れてて少ないんですけど、不思議な話でぼくの周りはたくさんそういう人がいて、当たり前のようにそういう話を聞いてるうちに自分の中で当たり前な情報になっちゃっていて(笑)。たとえば前科30犯とか聞いたら普通からしたら「なんだそりゃ?」って話なんですけど、そういう奴がいっぱいいるという話を聞いていると「まあ、そういうもんか」と。そういうふうな流れになっていますね(笑)。
―― 作品を拝見して暴力のほかにもうひとつ印象に残ったところがありまして、どの作品も「食」、食べることを大事に描かれているように感じました。
石原:いい指摘をいただいてありがとうございます(笑)。これもふたつ理由があるんです。ひとつ目は、子ども映画を9本撮ってたどりついたテーマがあって、それが「晩ご飯」だったんですね。それまでは「日本をどうやったらよくできるんだろうか」とか小難しいことをいっぱい考えていたんですけど、結局「家族で楽しい晩ご飯を食べていたら人間はそこまで歪まないんじゃないか」という答えにたどりついたんです。別に家族がいなくても、毎日愛する人と一緒にご飯が食べられたり、友達同士でご飯が食べられたりとか、楽しい時間があったら人間はそんなに歪まずにすむんじゃないかなと思ったんですよ。自殺する人とか、うつ病になる人とか、引きこもる人とか、そういう問題も晩ご飯で解決できるんじゃないかなというのがたどりついた答えで、それを長編映画でちゃんと描きたいと。「暴力」の反対は「楽しいご飯」かなと思っていて(笑)、その真逆のものを同時に出したいというのが理由のひとつ目です。
ふたつ目は、食べるものによって人間の活力って違うんじゃないかということを映画で描いてみたかったんです。『コントロール・オブ・バイオレンス』は餃子工場の人たちとチンピラたちが対立するんですけど、餃子側の人たちはわりとカーってなるような韓国系の活力のあるものをよく食べてて、実際に撮影中に食べてもらったんです。チンピラ側の人たちは、あえてジャンクフード的なものを食べてもらったんですよね。それは「食イコールエネルギー」だと思っているので「ちゃんと活力のあるものを食べてる人は強いよ」ということを描いてみたかったんです。
―― 先ほど『コントロール・オブ・バイオレンス』は「自由の身になった」映画だというお話がありましたが、子どもという要素をなくした代わりに新たに取り入れたものというのはあるのでしょうか?
石原:やっぱり、子どもとヤクザを融合させるのを3本やったら、自分の中でちょっと飽きが来るのと同時に、新しいことをやりたくなったんです。それで、まず自分の得意な子どものシーンをゼロにしようと思ったんですね。それから映像も白黒にしてみる。これは実はずっとやりたかったんですけど「白黒映画にすると売れない」と反対されてできなかったんです。でも、今回は新しい挑戦にしてみたかったので思いきって白黒映像にして、カメラもなるべく手持ちカメラで、人間の汗が流れる感覚をそのまま近寄って撮るくらいの感覚で、ドキュメンタリーっぽくやってみたかった。人間が食っている姿も、一緒に食べてみたいと思ったり、お腹いっぱいのような気持ちになったり、その近さを映画で出してみたかったというのがありました。あとはストーリーをシンプルにするという、それが新しく取り入れたことですね。
「新しい日本映画に飢えている人たちにぜひ観てほしい」
―― 監督は2011年に『VIOLENCE PM』でゆうばり国際ファンタスティック映画祭に参加されて北海道知事賞を受賞されて、翌年には『大阪外道』でグランプリを獲られていますね。これは監督の映画作りにとってどんな経験となったのでしょう?
石原:ぼくにとっては、やっぱり『VIOLENCE PM』で北海道知事賞を貰った1年目のほうが大きかったですね。それまでちゃんと映画祭に行っていなかった自分がゆうばり映画祭に行って「どこまで情熱を注いで作ったら世界に通用するものになるか」っていう世界の情熱の基準がわかったんです。韓国映画を観てもヨーロッパ映画を観てもそうだったんですけど、情熱のちゃんとこもっているものはどこに出しても通用するんだと。そこで方向性は間違っていなかったって自信はついたので、もうひと頑張りしてみよう、もっと盛り込んでみようと思って『大阪外道』で挑んだんです。だから、生意気ですけどグランプリを穫れたのは「やっぱりな」という感じがしました。なんか掴んだんですよね、1回目で。
―― 『大阪外道』以降の作品はプロデューサーとして林海象さんが参加されていますが、それもゆうばりファンタがきっかけですか?
石原:『VIOLENCE PM』で参加したときに林さんが審査委員長だったんですよ。それですごく気に入ってくれて、その日のうちに仲良くなって、2日目にはぼくは林さんを「親父」って呼んで、林さんはぼくを「息子」って呼ぶ仲になって、まあ、すごく息があったんでしょうね(笑)。それで「次にお前が映画を撮るときは、俺がプロデューサーになるよ」「親父、本当か?」「ああ、俺はやるよ!」って言っていて、それ以降ずっと本当にそうなっているという、なんか不思議な話ですね(笑)。
―― 『大阪蛇道』や『コントロール・オブ・バイオレンス』では関東で活躍されている俳優さんも参加されていますが、キャストやスタッフの面で、映画祭への参加や受賞によって変化した部分はあるのでしょうか?
石原:『大阪蛇道』に出てくれた坂口拓さんと仁科貴さんは、ゆうばりファンタでぼくの映画を観て「出たい」と言ってくれたんですね。もう、こっちからしたら手をあわすくらい嬉しいことで、俳優さんを新しく起用する面でも、ゆうばりファンタには本当に感謝しています。それからスタッフワークで言うと『大阪外道』のときにはちょっとガタガタだったところがあったんですね。その反省もあって、ちゃんとスタッフ固めようと思っていて、次の『大阪蛇道』ではきっちり固めることができたというか、それも変わることができたひとつの点ですね。
―― ゆうばりファンタの上映作品にも多いですが、近年は特にアジア圏で監督の作品に近いような「暴力」を描いている作品が増えていますよね。そういう作品や作り手にシンパシーを感じるところはありますか?
石原:ムチャクチャありますよ、それは。特に韓国からはそれを感じすぎて、ぼくは意識過剰になって『コントロール・オブ・バイオレンス』を作ったのかもしれないですし(笑)。ぼくは、暴力を描くのは人間を描くのに避けられないことやと思っているんですね。暴力を描かずに人間を描くこともできるけども、ぼくはエロを入れるより暴力のほうがより人間が出ると思っているんです。韓国映画はそれを怠らずに取り入れていて、人間を描くために暴力を描いているなという気がするんですね。ただの悪趣味で暴力を描いてるのとは違うなと。ヤン・イクチュン監督の『息もできない』(2008年・韓)を観たときに、生意気にも「ああ、俺と同じ人間って世界にいるんだな」って思いました。たぶん、思っていることとか背負っているものが一緒じゃないかと思うんです。そういう奴が隣の国にいるんだって、ぼくにとって韓国はほっとけない存在になっています。すごく対抗意識はありますね。
―― 監督はこれまで一貫して大阪での映画作りを続けていらっしゃいますが、監督にとって大阪というのはどういう場所なのでしょう?
石原:目立ちたがりでおせっかいで、話しやすい親近感のある人間が多いのが、ぼくにとっての大阪の町ですね。ぼくは若いころに商工会議所のオッサンたちと混ざって地元のお祭の手伝いとかもしてたんですね。そういうことに関わっていると、地域でコミュニケーションをとるのはどういうことかとかを学んだと思うんですね。だから、自分にとって大阪というのはやりやすい場所なんです。ロケーションの相談をしてもすぐ使わせてくれるし、すぐ協力をしてくれる。話が早いんですよね。「ちょっと検討してから後日また返事します」みたいなことは絶対にないわけなんですよ、大阪は。「面白そうだな、いつでも言ってくれ」か「いや、そういうのはいいから」のどっちかで、人間関係が直結している感じなんです。その気持ちよさがぼくにとっては心地よいですね。ぼくは遠回しなことが大っ嫌いなんで、大阪は自分にとって居心地のいいとこっていうことですかね。
―― 作品を拝見していると、作品の空気が大阪でしか生まれないものなのかなと思います。
石原:と思いますし、内容もそうですね。友達の東京の映画監督たちがみんな「石原さんの映画作りを東京でやってもあまり意味はないと思う」って言ってくれて、特に『大阪外道』なんかは「東京では撮れないと思う。あの人間模様は大阪じゃないと出ない」と言ってくれていますね。客観的にそうなんでしょうし、ぼく自身もそれは思っているんです。下町の人間を描くにしても、ぼくは東京の下町の人間の感覚はわからないので、ぼくは「大阪の下町スペシャリスト」なんですよ(笑)。そういう面では得意分野で、大阪でしかできないことはやっていると思いますね。
―― そうすると、やはり今後も大阪を拠点に、大阪を舞台にした映画作りを続けられるのでしょうか?
石原:なるべくそうしたいとは思っています。撮影体制は大阪である、出演者は東京の俳優さんとかにも大阪に来てもらって大阪で撮影する、それで宣伝や配給は東京から発信すると。いまやっているこのスタイルを続けていけたらそれがもっとも嬉しいことで、できなかったら、それはそれでまた変えていこうと。違う場所で撮ったり、東京に来ることもあるかもしれないという感じですね。
―― 監督は公式サイトでいろいろな方との対談を動画で配信されたりと、映画以外での発信というのも積極的になさっていますね。そういう活動もどんどん進めていかれるのでしょうか?
石原:発信の欲求は強いですね。対談も、相手の方に「対談してくれ」って頼んで、場所を作ってカメラで撮って自分で編集してって、結局自分で手弁当でやっているんですよ(笑)。自分のライフワークのひとつにしたいのは対談なんですね。本当に興味のある人と対談して映像でそれを公開するっていう、それはどんどんやっていきたいことのひとつです。監督自らそういうことをやりたがる人って少ないと思うんですけど、そこをなんとか続けたいと思っています。ぼくは相手を議論で打ち負かすような話し方というのは嫌いで、相手のいいところを引き出したりとか、建設的な話が大好きなんですよ。対談のいいところってそういうところかなと思うんで、いろんな人からいろんな話を聴きたい。お話し好きおばあさんみたいなところはありますね(笑)。
―― では最後に、東京での特集上映を前にしてのお気持ちを聞かせてください。
石原:一言で言うと、静かに燃えている感じですね。ぼくよりも、ぼくの周りのスタッフやキャストが熱くなっているくらいでして(笑)、ぼくは醒めているわけではないんですけど、わりと冷静にドーンと構えている状態です。できれば、新しい日本映画に飢えている人たちにぜひ観てほしい特集上映ですね。ぼくはもう、上映される3本の映画も全力で作りましたし、自分でできる限りのことはやったと思っていますんで、あとは任せるしかないというか、流れに身を委ねるような気持ちでいますね。ただ、飢えてる人は観にきてほしいと思います。
(2015年6月23日/ブラウニーにて収録)
大阪バイオレンス、3番勝負 石原貴洋監督作品
2015年7月11日(土)よりテアトル新宿にてレイトショー
- 7月11日(土)〜17日(金)
『大阪外道』(出演:木村涼介 大宮政司 初代 彫政統 上野央 ほか) - 7月18日(土)〜24日(金)
『大阪蛇道』(出演:坂口拓 仁科貴 田畑智子 山中アラタ ほか) - 7月25日(土)〜31日(金)
『コントロール・オブ・バイオレンス』(出演:山中アラタ 渋川清彦 屋敷紘子 尚玄 ほか)