『十字架』五十嵐匠監督インタビュー
中学2年の秋、ユウと同じクラスの男子生徒・フジシュンが自ら命を断った。フジシュンがひどいいじめに遭っているのを知りながら見て見ぬふりをしていたユウ。しかし、フジシュンは遺書でユウを“親友”と呼び、感謝の言葉を綴っていた。ユウと、やはりフジシュンが遺書に名を記した女子生徒・サユは、その日から“十字架”を背負う――。
これまで実在の人物をモデルにした作品を数多く手がけてきた五十嵐匠監督が、新作『十字架』で小説の映画化に取り組みました。重松清さんの同名小説を原作とする『十字架』は、ひとりの少年の自殺により重荷を背負うことになった同級生や家族の物語。主人公・ユウ役の小出恵介さんとヒロイン・サユ役の木村文乃さんが中学2年生から30代までを一貫して演じ、20年におよぶ苦悩や葛藤と、その先にあるものが真摯に描き出されています。
いくつもの映画会社から敬遠されたという重い題材に挑んだ五十嵐監督。監督はなぜその題材を選び、現代に向けてなにを伝えようとしているのか。『十字架』公開を前に、お話をうかがいました。
五十嵐匠(いがらし・しょう)監督プロフィール
1958年生まれ、青森県出身。大学在学中より自主映画を制作し、その後、四宮鉄男監督に師事。1983年よりフリーの監督として活動し、ピュリッツァー賞受賞カメラマン・沢田教一の軌跡を追ったドキュメンタリー『SAWADA』(1996年)が高い評価を得る。1999年にはフォトジャーナリスト・一ノ瀬泰造をモデルにした劇映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』を監督。以降、実在の人物の生涯を描く劇映画を多数監督するほか、テレビドラマやドキュメンタリーも手がける。
主な劇場公開作に『みすゞ』(2002年)、『HAZAN』(2003年)、『アダン』(2005年)、『長州ファイブ』(2007年)、『半次郎』(2010年)など。
「“こんな企画は通らない”と、いろんな映画会社を歩いてしょっちゅう言われました」
―― 『十字架』は重松清さんの小説を原作としていますが、原作小説にはどのように出会われたのでしょうか?
五十嵐:ぼくは映画の企画をいつも考えていて、本屋に寄るのが好きなんですよ。それで、新刊を見ていたら原作の「十字架」があって、あの薄いブルーの装丁が素敵でね。でも「十字架」というタイトルだし、いじめの話らしいから重い話だろうなと思いつつ、重松清さんの作品だからということで読んでみたんですよ。そしたら、最初の入り口は暗いんですけど、読み終わったときに「なんでこういう気持ちになるんだろう?」というような、なにか突き抜けた明るさみたいなものを感じたんです。だから、これを映画にしたら、たしかにいじめを扱った暗い話なんですけど、映画館を出るときには晴れやかな気持ちで出られるんじゃないかと思ったのが、ひとつ大きな理由なんですよね。
―― 監督はこれまで実在の人物をモデルにした作品が多かったので、小説を映画化されるのは意外な印象もありました。
五十嵐:この話はフィクションなんですけど、重松さんが実際のいじめ自殺をしたお子さんのお父さんにインタビューしていて、それを元にしているんですよ。完全なフィクションじゃなくて実際にいらっしゃるお父さんの話からフィクション化しているので、そういうところでぼくのアンテナに引っかかったのかなと思うんですよね。
―― 映画化が実現するまでの道程は、かなり困難だったそうですね。
五十嵐:「誰がいじめの映画を観るんだ」「こんな暗い話は企画は通らない」。ぼくはいろんな映画会社を歩いて、このふたつの意見をしょっちゅう言われました。「いまは震災とかいろんな大変なことがあって、人々はもっと明るくありたいし、笑いたい、泣きたい。だからそういう映画だったら企画が通るけど、こういう重い映画は難しい」という意見が多いんですよ。
―― それでも映画にしたいと思う一番の動機はなんだったのでしょう?
『十字架』より。小出恵介さんが演じる主人公・ユウ
五十嵐:そういう意見があると同時に、巷ではいじめ自殺のニュースがどんどん流れていたんですよね。それで、この映画をちゃんと作れば、単にいじめだだけではなくて、人間の赦しとか、十字架を背負って足腰を強くしてこれから生きていこうというのが伝わると思ったんです。決していじめをメインに考えているものではないんですけど、そこまでわかってくれる人がなかなかいなかったというのがあるかもわからないですね。
―― つまり、映画会社の方にいじめの陰惨さなど表層的な部分だけを見る人が多かったということですね。
五十嵐:そうです。ただ、プロデュサーでひとり「この映画は、いじめる側、いじめられる側の映画じゃなくて、その他の見ても見ぬふりをした人たちの映画なので、そこはみんなに共通するんじゃないか」と言ってくれた人はいたんですよ。それでけっこういいところまで行ったんですけど、結局はもっと上の取締役会とかで難しかったんです。やっぱり、映画って大きいお金が動くので、大きい会社組織のところだとなかなか難しいんですよね。でも、中にはちゃんとわかってくれる人はいるんです。
―― それが実現に至ったのはどんな経緯だったのでしょうか?
五十嵐:ふたつあって、今回の関(顕嗣)さんというプロデューサーが興味を持ってくれたというのがひとつ。もうひとつは、ぼくが前に『HAZAN』(2003年)という陶芸家の板谷波山の映画を、茨城県の当時は下館市、現在の筑西市で撮っていて、そのときに市が相当に協力してくれたんです。それでぼくは筑西市の観光大使もやっているんです(笑)。そういう中で筑西市にもう1回手伝ってもらえないかと思って、市長に掛け合ったんですよ。それで、たまたま筑西市でも「いじめゼロ運動」というのをやっていたものでトントン拍子で話が進んで、筑西市に協力してもらって、プロデューサーの関さんに間に立ってもらって立ち上がっていったということなんですよね。
―― 筑西市の協力が得られたことが大きかったのですね。
五十嵐:もちろんそうです。筑西なしだと成立しないです。だから地方の力ですよね。
―― 困難だった映画化が実現することになって、どのようなことをお感じになられましたか?
五十嵐:責任です。映画の中でも700人くらい子どもたちとか父兄も含めて協力してもらっているんです。その方たちに観てもらって満足してもらえるものを作らないと、すごい悪いし失礼だなと思ったので、責任を負うということは考えましたし、納得してもらえるものをどうやったら作れるかということをずっと考えていました。
「30歳の男が中学生役をやるのは大変。それをわかった上で賭けたところがある」
―― キャストの方々についておうかがいしたいのですが、まず主人公のユウ役に小出恵介さんを起用されたポイントはどんなところでしょう?
五十嵐:現代っ子みたいだからですね。つまり、神経質な人じゃないほうがいいなと思ったんです。サユは自分の誕生日がフジシュンの命日になって、それを背負って生きるんでひじょうに繊細な女の子なんですけど、ユウを同じように繊細にしちゃうと映画を観ていてつらいかなと思ったんです。なにか哀しいことがあったときに、すぐ忘れて、また思い出してという、そういう子どもにしたほうが観るほうは楽に観られるのかなって思ったんです。サユをやった(木村)文乃や、フジシュンの両親をやった永瀬(正敏)さんと富田(靖子)さんと同じような人ではなくて、いろいろ忘れていくような感じとか、面倒くさがるとか、そういう面をうまく出した現代っ子っみたいなタイプなので楽に観られる部分があるとぼくは思うんですよね。
―― すると、サユを演じた木村文乃さんについては、その繊細さというのがポイントですか?
五十嵐:そう。あとは翳があるでしょ? 彼女は。『アダン』(2005年)も、その翳でぼくが選んだところがあるんですよね。
―― 木村文乃さんは監督の『アダン』がデビュー作ですが、お仕事をされるのは『アダン』以来初めてでしょうか?
五十嵐:フジテレビの「ザ・ノンフィクション」で、声だけやってもらったことはありますね(2005年放送「世界で一番美しい花」)。実は『十字架』が決まる前から、次に映画をやるときはどんな内容でも文乃に出てもらおうと決めていたんですよ(笑)。だから、役がすごくあっていたんでしょうね。
―― 今回『十字架』の特徴といえるのが、ユウとサユの中学時代と大人時代を別の俳優さんが演じ分けるのではなく、小出さんと木村さんが中学生からの20年をずっと演じているところだと思うのですが、なぜこの手法をとられたのでしょう?
五十嵐:いろいろ紆余曲折はあって、たとえば小出くんの中学時代は違う男の子にしてサユは木村文乃でずっと通すとか、サユも中学校は違う少女でやるとか、いろいろな組み合わせを考えていたんです。それで、フジシュンとユウのサッカーのシーンがありますよね。あのシーンは原作にはないシーンで、ぼくの中ではあそこがポイントで、果たしてあそこでユウが中学時代と別人でいいのかと脚本を直しているときに思ったんです。要するに、中学生時代もちゃんと小出くんがユウ役で、フジシュンも中学生で、ふたりがひとつのスクリーンに入ることであのシーンが切なくなるんじゃないかと思ったので、思い切って小出くんに中学生時代からやってもらうことにしたんです。30歳の男だと骨格も違うし、中学生役をやるというのは大変だったと思います。ぼくはそれをわかった上で、あのサッカーのシーンに賭けたところがありますよね。
―― 小出さん木村さんおふたりとも、中学時代から大人までを演じることについてご苦労はなかったのでしょうか?
『十字架』より。木村文乃さんが演じるヒロイン・サユ
五十嵐:簡単じゃないですからね。今回は、実際の中学生たちを集めたワークショップをやっているんです。500人くらいから書類選考とかオーディションをして100人くらいになって、ひとりひとりに会って「君はユウのクラス、君はサユのクラス」って分けて映画のクラスをふたつ作って、それで稽古をしてお芝居を作っていくわけです。そこに最後に小出くんと文乃を入れるんですけど、そのときにやっぱり入っていけないですよね。だから、そのためにみんなでバーベキューパーティーを開いたり、焼きそばパーティーを開いたりしながら、少しずつ少しずつ中学生たちに馴染ませるようにしたんですよね。その間に小出くんともいろいろ話をしましたし。
―― ワークショップはどのくらいの期間おこなわれたのですか?
五十嵐:3ヶ月くらいなんですけど、土日とかだけなんで、延べの日数はそんなに長くないんですよ。茨城中のあちこちから集まっててみんな学校が違うし、東京からも来ていましたし、それで筑西の公民館に集めてやっていたんです。
―― それだけの人数を集めて3ヶ月というのは、最近の映画ではあまりないようなやり方ですね。
五十嵐:いや、映画だとほんとはみんなやんなきゃダメなんです。いまは時間とか予算とかでなかなかできないけど、昔はそれをやったわけで。深作(欣二)監督の『バトル・ロワイアル』(2000年)だって、深作さんが大泉の東映の撮影所で運動会みたいなことをやらせてたんですよ。みんな集めて走らせたり、マットを置いてでんぐり返しみたいなことをやらせて、深作さんは「よーい、ハイ!」って体育の先生みたいなことをやるんです。そういうふうにやっていたわけで、やっぱり本来やらなきゃダメなことなんですよ。
―― ワークショップで馴染んでもらうこと以外に、監督が小出さんを中学生らしく見せるために意識された点はあるのでしょうか?
五十嵐:結局、中学生っていうのは感受性で生きているから、女の子は中学生でもけっこうしっかりしているんだけど、男はもう動物と人間の間みたいなものなんですよね(笑)。小出くんは慶応大学の文学部を出ている頭のいい人なので、その小出くんが中学生の動物らしさをどう出せるかということがポイントなんです。たとえば、校庭で遊ばせるシーンなんかも、ホースで女の子に水をかけるとか、中学生的な行動とか言葉というのも含めて、話をしたりはしました。それをどう作るかというところで、たぶん小出くんは悩んだと思いますね。
「“映画の人を撮る”ということの嬉しさというのはやっぱりあるのかもわからないですね」
―― フジシュンの両親役に永瀬正敏さんと富田靖子さんを起用されたのはどんな理由からでしょう?
五十嵐:やっぱり「映画俳優と仕事したい」という気持ちってあるんですよ。永瀬さんはほとんど映画にしか出ていないし、やっぱり彼の存在感は強烈なわけで、ある意味すごく映画の匂いが強い人ですよね。その映画の匂いの強い人と、同じく映画の匂いが強い富田靖子さんという人がバックにドンといるというのが今回の映画には必要じゃないかなと思ったんです。小出くんは映画だけでなくテレビとかいろいろやっていたりするんだけど、そのうしろにいるフジシュンのお父さんとお母さんは映画人というのかな、映画の匂いが強い、大きい存在であってほしいと思ったので、それで頼んだんです。
―― 永瀬さんは父親の感情を鬼気迫るような演技で表現されていて、特に中学校の卒業式でフジシュンの遺影を掲げるというシーンが印象に残ったのですが、永瀬さんはあのお芝居はどのように作り上げていかれたのでしょうか?
五十嵐:あれは撮影したのは初日なんですよ。あのシーンを初日に撮るスケジュールというのは、ほんとはやっちゃダメなんです。だけども、あそこは生徒とか父兄とか500人くらい集めているので、学校の関係でその日しか集められなかったわけですね。なのでクランクインの日にあれを撮らなくてはダメだということで、もうみんなピリピリしているんです。撮影の初日なんて普段でもみんな感情が高まってピリピリしてるし、うちの助監督なんて前の日から下痢になって眠れないんですよね。そういう中に永瀬さんは、無精髭を生やして、顔も蒼くして、初日にあのお父さんの状況を作ってきちゃっているわけですよ。もう、周りはなにも言えないですね。それで、いまおっしゃった写真を掲げる芝居をやったら、学校の先生方をやった周りの役者連中はもうビックリしちゃっているわけ。そういう面で、初日にあのシーンがあるというのはほんとはアレなんですけど、役者連中も「ああ、永瀬正敏さんはここまで作っているんだ」って締まるわけです。そうするとスタッフも半端じゃなくなるというか、だんだん締まってくる。だからすごいですよ、彼の作り方というのは。
―― ということは、永瀬さんの存在が映画全体に影響を与えたところがあるのでしょうか?
『十字架』より。永瀬正敏さん演じるフジシュンの父(左)と、小出恵介さん演じる中学時代のユウ
五十嵐:影響は与えましたよね。その永瀬さんの映画への姿勢というか、それはやっぱりすごいですよ。あの集中力はちょっと違うんですよね。ぼくも永瀬さんの芝居で勉強になったし。
―― 母親役の富田靖子さんも、観ていて母親役が富田さんであることを忘れてしまうようなお芝居でした。
五十嵐:やっぱり映画女優さんなんですよね。だから、黙っているときの顔が芝居しているというか、けっこうリアルなんです。たとえば、フジシュンの家にユウとサユが行って、手前に永瀬さんで、ナメて奥に富田さんがいて仏壇を見ているカットがあるんですけど、そのときの富田さんの表情は映画女優だなと思うんですよね。そういうのを見ると嬉しくなるし、撮りたいなと思うんですよ。ぼくたちの世代にとって永瀬さんとか富田さんというのは映画の人だから、その人と一緒に仕事をできて、その人を撮るということの嬉しさというのはやっぱりあるのかもわからないですね。
―― 若いキャストの方々についてもおうかがいしたいのですが、フジシュンの弟の健介を演じた葉山奨之さんの印象はいかがでしたか?
五十嵐:葉山くんは、最初から決めていたのではなくて、オーディションのときに何人かの中のひとりだったんですよ。それで、オーディションをしたとき一番ギラギラしていたんですよね。ギラギラしていて「とにかく出たい」という感じだったんですよね。彼は松田優作さんを尊敬していて、自分なりに「これに賭けるから」と言っていたり、あとは中島(哲也)さんの『渇き。』(2014年)に出ていて、なかなかいい役をしていたので、だからぼくも彼に賭けてみようかなと思った部分はありますよね。葉山くんと小出くんとのバトルがあるじゃないですか。あれはけっこう何回もやらせたんです。それも現場じゃなくてオーディションでけっこうやらせているわけ。何回もホンを読ませてあれをやらせて、だから撮影のときにはけっこう自分の中に入っていたみたいで、そのときは2回とかそれくらいしかやっていないんですよね。彼は熱いっていうか匂いがあるからいいですよね。草食系に見えるけど意外と肉食だから(笑)。そこがいいんですよ。
―― もうおひとり、フジシュンを演じられた小柴亮太さんの存在もこの映画には重要ですね。
五十嵐:小柴は、ぼくがフジテレビの「土曜プレミアム」で棟方志功のドラマ(2008年放送「我はゴッホになる! ~愛を彫った男・棟方志功とその妻~」)をやったときに、棟方志功の子ども役で使ったんですよ。そのときになかなか勘がよくって、頭いい子でそつがないなって印象があったので、それで今回フジシュンを小柴にしたんです。いいかたちで大きくなっていたし。
―― 小柴さんは、いじめられるシーンがかなりハードですが、演じる上でのご苦労などはなかったのでしょうか?
五十嵐:いや、それもワークショップをやっていますから。つまり、一般の生徒を集めてそこに小柴を入れているんですよ。そうすると、小柴とほかの生徒たちが仲良くなるんですよね。仲良くなっていて、撮影でああやってズボンを下ろしたりするシーンをやるわけですけど、カットがかかるといじめる側の生徒をやっていた連中が小柴のことを抱きしめてやるわけですよ。つまり、もう小柴とほかの連中の間に関係ができあがっているわけです。ほんとは仲が良いのに芝居でやっているんだってわかっている関係ができあがっているので、その点では小柴も意外とドライにやっていたと思うし、関係がうまく作っていたと思います。
「ぼくの映画が鏡になって、映画を観ることで自分を見てくれればいいと思っているところがあるんです」
―― 今回、ワークショップに参加されて映画に出演した同級生役の若い方たちは、同世代として「いじめ」という内容をどう捉えられていたのでしょう?
五十嵐:もう、彼らにとっては身近すぎてダメなんですよ。オーディションした100人には重松さんの「十字架」を読ませて感想文を書いてもらって、ぼくもそれを読んだんですけど、あまりに「いじめ」というものが近くて客観的じゃないんですよね。「いじめ」という言葉だけでも目に涙を溜める子もいるわけですから。ワークショップではいじめる設定で芝居を作るので、いじめる側といじめられる側ができるじゃないですか。そうすると、突然こっちが自分を無視したり、仲間だった子が無視する側に付いたり、すごくリアルなんです。実際にいじめられて3回転校した高校2年生の女の子がいたんですよ。それで、ワークショップでは「君はいじめられる側じゃなくていじめる側をやれ」と言ったんです。そしたら、自分がいじめられた経験をいじめる側として芝居しはじめるんですよ。だからそれがすごくリアルで、それを映画の中に入れたりする部分もあるんですよね。
―― 冒頭でも「地方の力」というお話がありましたが、ワークショップをおこなうことも含めて、地域の協力を得て撮影することの利点というのは大きいのですか?
五十嵐:すごくありますよ。そこの地元の人と顔を合わせて地元のものを食べるというのはすごいインスパイアされるというか、それはすごく大きいんですよ。地方に来て考えることってすごくたくさんあるんです。東京でのロケみたいに新宿に集まって、また家に帰って、また新宿に行くときとは決定的に違うんです。だからぼくは地方ロケが好きなんです。それで、地方に来て撮影していると、たとえば美術の場合だったら「こういうものがあるけど使う?」とかって持ってきてくれる人がいたり、地元の人と撮影している感じがあって、そういうことが映画に深みを与えるんです。それは面白いと思います。
―― 今回は筑西市という土地が『十字架』に影響を与えた部分もあるのでしょうか?
五十嵐:土地もそうですけど、やっぱり人ですよね。優しい方々とみんなで一緒になってなにかを作るということに対しての想いというのはすごくあります。あとは、最初にお話ししたとおり、筑西では「いじめゼロ運動」というのを1980年代からやっていて、そういう問題意識がすごく強いところで撮らせてもらったというのは大きいと思います。
―― 監督はこれまでも実在の人物をモデルにしてひじょうに骨太な作品を作ってこられていますが、骨太な作品に挑み続ける理由というのはどんなところにあるのでしょう?
五十嵐:ぼくは嫌いな人は描けないんですよ。やっぱり、ぼくが好きな人しか描けないんです。それは嫌いな部分があっても100%嫌いでなければ、20%くらい好きなところがあればその20%を映画化したいなと思うんですよね、あと、自分にできないことをやっている人に興味があるんですね。『地雷を踏んだらサヨウナラ』(1999年)でも、戦場カメラマンというのはぼくが憧れたことのある仕事なんですよ。そういう憧れがあって、憧れた人とか好きな人がどんどん亡くなっていってしまうんですよね。そうすると「その人はなんで生きていたんだろう? その人が生きる上で、なにか神様からプレゼントされていたんじゃないか」という気がして、そこを映画化できないかなと思うんです。それからもうひとつは、本物だけど埋もれている人っているじゃないですか、田中一村(※『アダン』のモデルである画家)みたいに。そういう人に光を当てたいという気持ちはちょっとあるんですよ。偽物なのに光があたっている人もけっこういて、それはそれでいいんだけど(笑)、「この人は本物なのになんで光が当たっていないんだろう?」というのは思うんですよね。その本物を映画で見せることによって「本物ってなんだろう?」って思ってもらえたらいいですし。
―― 監督はこれまでの作品で実在の方々の生き方、人生を描いてこられたわけですが、今回の『十字架』も、フィクションではあるけれど登場人物たちが「どう生きたか」を描いていて、誰かの人生を描いているという点ではほかの作品と共通しているように感じました。
五十嵐:もう、おっしゃったとおりです。突破口として「いじめ」ということを言っているけど、この映画で伝えたいのは、誰でもみんなそれぞれなにかしら脛に傷を持っていて十字架を背負っているわけで、最初にも言ったけど「その十字架を下ろすことはできないから足腰を強くして生きようよ」ということなんです。ぼくがいつも思っているのは、ぼくの映画が鏡になって、映画を観ることで自分を見てくれればいいと思っているところがあるんですよね。『地雷を踏んだらサヨウナラ』の場合は一ノ瀬泰造という人の生き様を見ながら自分を発見することかもわからないですし、この映画も「いじめの映画」と捉えてもらうのはそれはそれでいいんですけど、ぼくとしてはそういう「生き様の映画」だと思っています。
―― 先ほど「嫌いな人は描けない」というお話もありましたが、やはり『十字架』の登場人物たちも、実在の人たちではないけれど、監督が「好きな人」たちなのでしょうか?
五十嵐:好きというか、やっぱり共感は覚えますね。特にフジシュンの弟の健介ですね。ぼくは最初に原作を読んだときに、健介の気持ちはわかるなって思ったんです。必死になって赦そうと思っている、でも赦せない、なんで俺の周りに波風を立てるんだって。健介のフジシュンへの想いとかもすごい共感を覚えるわけですよ。だから、今回の映画って、ある意味で「共感の映画」だと思っているんですよね。観ている人が誰に共感するかとか、誰のどこに共感するとか、そういうところで観てもらえればいいのかなって思います。
―― では最後に『十字架』をご覧になる方々に向けてメッセージをお願いします。
五十嵐:映画というのは、劇場に入って楽しくて、それでいてうっぷんも晴れて、明るく劇場を出るというのもひとつのかたちだと思うんですけど、ぼくの中の映画というのは映画館を出てから少しでも心が揺れるようなもので、そういう映画を作ろうとずっと思っている部分があるんです。この映画を観て、どこか共感を得て、心が揺れて、前向きに生きようとする気持ちを持ってもらえたら、監督としてすごく嬉しいと思います。
(2015年12月18日/ストームピクチャーズにて収録)
十字架
- 監督・脚本:五十嵐匠
- 原作:重松清
- 出演:小出恵介 木村文乃 富田靖子 永瀬正敏 ほか
2016年2月6日(土)より有楽町スバル座、シネ・リーブル梅田、名演小劇場ほか全国ロードショー イオンシネマ下妻にて先行ロードショー