橋から身を投げつつも生還した高校生・澄子。学校に戻った彼女は、幼なじみである同級生・秀明が教師の波多野と密かに交際している証拠を握り、秀明を脅迫していく。その澄子の行動の裏には、ある少女の存在があった……。
映画祭などで上映され好評を得てきた『彼女はひとり』が待望の劇場公開を迎えます。中川奈月監督が大学院の修了制作として作り上げたこの作品は、ホラー的な表現も用いてひとりの少女の孤独を浮かび上がらせる異色の学園ドラマとなっています。
中川監督の初長編にして多くの映画人が称賛する傑作となった『彼女はひとり』は、いかにして生まれたのか? 監督にお話をうかがいました。
中川奈月(なかがわ・なつき)監督プロフィール
立教大学文学部卒業後、ニューシネマワークショップに入学し映画制作を開始。その後、立教大学大学院映像身体研究科、さらに東京藝術大学大学院映像研究科で学ぶ。立教大学大学院の修了制作作品である『彼女はひとり』(2018年)でSKIPシティ国際Dシネマ映画祭国際2018や田辺・弁慶映画祭2019で賞を獲得するなど高く評価された。東京藝術大学大学院在学中に『昼の迷子』(2018年)『夜のそと』(2019年)を監督。2020年開催の「田辺・弁慶映画祭セレクション2020」内で特集上映がおこなわれたのをはじめ、各地で特集上映が開催されている
女の子が力強く感情的に復讐していく様子を自分で観てみたい
―― 『彼女はひとり』は既存のジャンルに当てはまらないというか、ジャンルを越えた作品のように感じました。監督は、どのような作品を目指して『彼女はひとり』を作られたのでしょう?
中川:最初はシンプルに「ホラーが撮りたい」という気持ちがまずあったんです。それで「女の子が幽霊の行動を受けて復讐をする」という話で脚本を書き進めていったんですが、ホラー描写が凝っているだけであまり中身が伴わない脚本になってしまったんです。この映画は立教大学大学院の修了制作なのでつねに指導教員である篠崎誠監督に脚本を読んでいただきながら進めていまして、篠崎監督からそういう指摘をいただいて、もうちょっと主人公の内面を掘り下げていこうということでドラマに寄ったストーリーに変わっていったんです。なので、最初からこういうかたちで脚本を書きはじめたわけではないのですが、結果的にいろいろなジャンルが混ぜ込まれた話になったと思うんです。
―― 「ホラーが撮りたい」と思うきっかけはなんだったのですか?
中川:最初のきっかけは黒沢清監督のホラー映画でもあるんですけど、特にどの作品ということではなく、ホラーって精神描写みたいに登場人物の心の中で起こっている物事が勝手に見えてしまうのが面白いと思っていたんです。デヴィッド・クローネンバーグの映画でも奇妙な世界観みたいなところがすごく好きでしたし、幽霊とか登場人物の妄想みたいに、現実では起こらないようなことが映像になっている映画がずっと好きで引き込まれていて、そういう映画を自分でもやりたいなというのがありました。
―― 主人公が復讐をする話という発想はどのように生まれたのでしょうか?
中川:もともとは、子どものときにカッコいいおじさんが活躍するハードボイルドみたいな映画がすごく好きで、そういう映画って復讐ものが多いんですよね。子どものころに観ていたのでボヤっとイメージしかなくて具体的な作品は挙げられないんですけど……たとえば『レオン』(1994年・米,仏/リュック・ベッソン監督)なんかも女の子の復讐を男性が手伝うという一種の復讐ものですよね。そういう復讐ものって男性が主人公なことが多いので、それを女の子にチェンジして、女の子が力強く感情的に復讐していく様子を自分で観てみたいなと思ったのがきっかけです。
―― 『彼女はひとり』は、復讐の話ではありますが、屈折、鬱屈した復讐の話になっていますね。
中川:そうですね、女の子が追い詰められて復讐する相手がわかりやすい悪者でもなくて、でも「自分が弾かれていく」みたいな普通に生きていると誰にでもありそうなことで、そういう「周りのいろいろな人がつながっていくけど私はそこにいない」という寂しさみたいなものをこの子に当てはめようとフッと思いついたんです。自分が弾かれたきっかけと、過去に起きたある事件があって、それを全部裏っ返しにして叩き返すのが、この子にしたら復讐になるのかなと思いました。
―― その復讐の場となるのは高校ですね。舞台を学校にしたのはどんな理由からですか?
中川:想像しやすかったのが一番ですね。脚本を書いたときは大学院生だったんですけど、自分が経験したことのあるコミュニティで女の子が悩みを持つ環境というのと、家と学校の往復の中で閉じられた場所であるということで、学校が一番やりやすかったというのもあります。
福永朱梨さんが来て、自分の中でフワっとしていたイメージがそのまま実体化した
―― 主人公の澄子を演じた福永朱梨さんはオーディションで決まったそうですが、どんなところが起用の決め手になったのでしょうか?
中川:私も初めてのオーディヨンだったのでどうすればいいのかわからない状態でオーディションさせてもらっていたんですけど、福永さんが来て、自分の中でフワっとしていた澄子のイメージがそのまま実体化したというか、この雰囲気で任せられるなと思えたんです。もう“福永朱梨さん”という自分自身を全部捨てて澄子になりきった状態で部屋に入ってこられたので「すごい子が来たな」と思って、澄子がどういう想いで生きてきたとか、なにがあったかというのを、その存在感でわからせてくれるような方だったので、福永さんにお願いしようと決まりました。
―― 個人的に福永さんの声が印象的で、声もポイントだったのかなと想像していました。
中川:そうですね、あの切実感が出るのはあの声だからかなと思いますし、声も含めて全体で福永さんなので、やはり声は重要だったと思います。
―― 福永さんが澄子を演じる上で、監督が求められたのはどんなことでしょう?
中川:「澄子はこういう人間です」みたいなことは撮影入る前のリハーサルの段階でけっこう話し合っていたんですけど、福永さんはもう脚本を読んだときに「わかります」と言ってくれていて、話した段階でイメージが変わるということはほとんどなくて、リハーサルでも言うことはあまりなかったんです。そのままやってもらおうって思っていまして、本番では福永さんがリハーサルとはまた違ったものを出してきたんですけど、それはもう福永さんに任せようというのはありました。自分的にちょっと行き過ぎかなと思ったときだけ抑えてもらうくらいで、基本的には福永さん主体でやってもらった感じです。
―― 澄子の幼なじみの秀明を演じられた金井浩人さんはどういう点で起用されたのでしょうか?
中川:金井さんは、もちろん演技がすごくうまかったのも理由なんですけど、波多野先生と澄子の間に立たせたときに一番そこにいてほしくない感じがあると思ったんです。年上の先生と交際しているというのが似合ってしまう人もいると思うんですけど、金井さんは「君がそうであってほしくない」というような雰囲気で、だから面白いなと思いました。「この子にあまり裏切られたくない」というキャラクターを金井さんが一番出せそうかなと思ったんです。
―― ちょうど役の名前が出たところで、波多野先生を演じた美知枝さんについてもお願いします。
中川:美知枝さんはすごくきれいな方で、生徒と関係を持ちそうにないくらいの真面目さを出してもらいつつも、そっちに行ってしまうという違和感とか、すごい罪深い感じが出ているなと思いました。でも誰かに対して必死になってくれそうというのは、やってもらったあとで思っています。
―― 映画の終盤での波多野先生の行動は、ちょっと意外かなとも思いました。
中川:最初から波多野先生がああいう行動をするというつもりで脚本を書いていたのではなかったんです。ラストのほうはけっこう勢いで書いてしまっていて、その中で誰かにああいう行動をとらせるとしたら、登場人物の中では波多野先生しかいないなと思ったんです。設定としては波多野先生にもああいう行動をするだけの過去があると考えてはいて、それを脚本に書こうかなとも考えたんですけど、書く段階で相談をして、それは書かないでいこうとなったんです。
たくさんの方に観ていただいて、共感してくれる方が増えたら嬉しい
―― 映像も全体に寂寥感があって主人公の心象を表現しているように感じました。映像面で監督がこだわられたのはどんなところでしょうか?
中川:映像面に関しては、5年前にほぼ初めて映画を撮る環境で自分もいっぱいいっぱいなところを、黒沢清監督の作品もやっていらっしゃる撮影の芦澤明子さんにいろいろ汲んでやっていただいたので、自分が全部をやったという認識はまったくないんです。ただ、どうしても主人公が切り離されていてほしかったので、なるべく主人公と誰かがふたりで対話するところは相手の肩越しとかではなく完全に分けてほしいというようなお話はしました。あとは、澄子が秀明の家を訪ねていって階段を登っていくところは、私がずっと見知ったところで撮っていたこともあって私の中でイメージができていて、すごく引きにして登っていくのをずっと上まで撮ってほしかったんです。そうお話をしたらその通りにやっていただけたのはすごく楽しかったし嬉しかったですね。あれはお向かいの家の屋上に登らせていただいて撮っていて、すごくいい画になったなと思っています。
―― 作品全体を通して、柵や手すりなどの境界を示すものがよく映っていた印象があります。
中川:手すりとかに手をかけてほしいという気持ちはありました。やっぱり、ベランダとかを最初に澄子が飛び降りる橋に見立てているところはあって、手すりに手をかけることでギリギリ越えてしまうかもしれない焦燥感は出せるのかなと思っていたんです。福永さんも、なにも言わないでも手すりに触るくらい近づくんです。
―― 秀明の家のところは見知った場所だったということですが、ロケ場所は監督がもともとご存知の場所が多いのですか?
中川:そうですね、学校は私が通っていた学校ですし、澄子や秀明の家なんかも私がよく知っている辺りで撮らせてもらっています。ただ、橋とか公園とかは撮影のために探した場所で、全然知らなかったところでやっています。
―― 秀明の家の階段も含め、あのロケーションだから成立するカットとか、映画全体の核となるものをロケーションが象徴しているように思えるところもありました。脚本の初期からロケ場所を想定して書かれていたのでしょうか?
中川:想定していたところとそうでないところがありますね。学校のベランダを使ったところなんかは、母校にあの場所があるのがわかっていたので、そこでやりたいという気持ちはありました。でも、映画の最後のほうの階段の踊り場のシーンは、あの場所を知っていたにもかかわらず私自身はどこでやろうかと悩んでいたんです。それが、芦澤さんたちと学校を見にいったときに「なんだこの階段は?」みたいな話が出て、私はずっと通っていてそんなに変わった造形だとは思っていなかったんですけど、あんなに踊り場がある変わった階段がある建物はそうそうないよということで「じゃあここでやるしかないな」となったんです。あの階段は普段はつねに生徒が歩いているので私にとってはひと気のある場所のイメージで、私にはあのシーンをそこで撮るということがイメージできなかったんです。それを、シーンに合った雰囲気を作ればいいんだということで撮ってもらったら、すごい面白いシーンになって、ほんとによかったと思っています。
―― 映像面では、澄子が見る幽霊の表現も印象的です。
中川:幽霊描写に関しては黒沢清監督の映画なども観ているんですけど、ジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』(1978年・米)で幽霊が「あ、いたんだ」みたいな登場の仕方をするのと、主人公が幽霊と取っ組み合いをするのがすごく面白くて、そういう出し方を入れてもいいのかなと思って、参考にしています。
―― 最後になりますが、2018年以降にさまざまな映画祭での上映や特集上映を経ての単独公開を前に、監督が感じられていることを聞かせてください。
中川:これまでに観ていただいて、演出とか脚本が面白いと言っていただくこともあったんですけど、私がこの映画でやりたくて詰め込んだものをひとつひとつ拾ってくださって、そこに共感して面白がってくれる方々がいらっしゃるんです。そういう方々ひとりひとりに出会えたことが私にとってはすごく面白くて、私自身がそういう気持ちで作ってはいたけど忘れていたようなことを気づかせていただくこともありましたし、いろいろな捉え方があるんだなと思っています。ですから、今回の上映でも、たくさんの方に観ていただいて、いろいろな楽しみ方をしてほしいなと思っていますし、共感してくれる方が増えたら嬉しいなと思っております。
(2021年9月22日/都内にて収録)