短編『OBSESSION』(2002年)、『SEVEN DRIVES』(2003年)がゆうばり国際ファンタスティック映画祭で2年連続で入選、2005年にはその2作を含む短編作品群が池袋シネマ・ロサで特集上映され、注目を集めた入江悠監督の長編第1作がいよいよ完成しました。
待望の初長編となる『JAPONICA VIRUS』は、謎のウィルスが蔓延し、政府による統制が進もうとしている近未来の日本を舞台に、あるきっかけから実家に戻ることになった青年・陽一郎の姿を描くSFタッチのロードムービー。
この作品を生み出した監督のルーツとは? 公開を前にお話をうかがいました。
入江悠監督プロフィール
1979年生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中から映像制作をはじめ、短編『OBSESSION』(2002年)、『SEVEN DRIVES』(2003年)がゆうばり国際ファンタスティック映画祭に2年連続入選。大学卒業後も映画制作を続けるほか、冨永昌敬監督『パビリオン山椒魚』(2006年)には演出部として参加。『JAPONICA VIRUS』で長編デビューを果たす。
公式サイト:http://www.norainu-film.com/index.html
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外に向けて上映して、評価にさらされたいという気持ちがあった
―― 監督は日本大学芸術学部出身ですね。日芸で映画を学ぶきっかけはなんだったんですか?
入江:中学校くらいから映画は良く観ていたんです。ちょうど『ターミネーター2』(1991年/ジェイムズ・キャメロン監督)とか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年/ロバート・ゼメキス監督)とか、アメリカSF映画みたいなのの全盛期だったんで、そういうのを観て育ちましたね。それで、大学受験をして一浪している間に予備校にも通わずに毎日映画を観ていたら、すごく成績が下がって(笑)。それで、もともと興味があった日本大学の芸術学部に行こうと思ったんです。映画を観ることしかしていなかった1年だったので、それしかないと思って。
―― 大学での映画の授業というのはどういう風に進むんでしょうか?
入江:日芸はすごく専攻が細分化されていて、監督コースとか撮影コース、演技コースとかに分かれているんですよ。それでそれぞれのコースに入ったらそこで4年間、監督コースならシナリオを書いて撮影して編集してっていう工程を全部勉強して、演技コースなら演技の勉強をしてという風に細分化されているんです。
―― 最初に映画を作ったのは?
入江:大学で8ミリフィルムで10カットだけのサイレントの短編を作れという授業があって、そこで作ったのが最初ですね。それはほんとに映画の基本を学ぶためのものなので、大学の外に向けて見せるっていうことを含めて映画作品と呼ぶのであれば『OBSESSION』(2002年)という作品が最初ですね。『OBSESSION』も大学の3年のときの課題なんです。1年かけて短編を1本作るという課題で、機材なんかは学校から借りられますけど、シナリオを自分で書いて、編集をして、作品を作って単位をもらうというシステムなんです。スタッフは撮影コースとか録音コースとかほかのコースの学生で集まって、俳優はいろいろなところから探してきましたね。いろいろな大学にいったり、演劇を見たりしてオーディションをしましたし、その辺はかなり自由なんです。ただ、交通費とか製作にかかる実費は学生が自分で出すんです。だからお金があれば1千万かけて作ってもいいんですよ(笑)。『OBSESSION』は数十万円で、みんなでバイトして貯めた金で作ったんですけど。
―― 『OBSESSION』はゆうばり国際ファンタスティック映画祭に入選しましたが、応募したきっかけはなんだったんでしょうか?
入江:たまたま応募の告知を見つけたんですね。大学で作った作品は学校の中で上映するんですけど、それで終わる作品が多かったんです。大学の中で3年間もやっているとすごい小さなコミュニティみたいなものができてきて、ある偏った作品の傾向があるんじゃないかという気がしていたので、外に向けて上映してほかの自主映画と同じ土俵で評価にさらされたいという気持ちがあったんです。そういう理由から応募したら入選したということなんです。
―― 実際にゆうばりで大学の外の人たちに向けて上映して、どんな気持ちでした?
入江:ぼくはいまだに自分の作った作品を直視できないんですよね。だからそのときも嫌な気持ちで観ていました(笑)。ゆうばりファンタは上映する作品には字幕を入れなきゃならないんですけど、『OBSESSION』は16ミリだったんで字幕を入れるお金がなくて、字幕なしで上映していたんです。それで審査員は海外の人が多かったんでポカンとしていて、ぼくは申し訳ないような気持ちですごくお腹が痛くなりました(笑)。でも、中には面白いと思ってくれる方がいて「こっちの映画祭にも出してほしい」とか「企画があれば送ってくれ」とか言ってくれる方はいたので、そういう方に観てもらえるきっかけになったんだろうなとは思います。
―― 翌年には『SEVEN DRIVES』(2003年)がゆうばりで上映されていますね。
入江:『SEVEN DRIVES』も大学の課題だったんです。『OBSESSION』の次の年の課題で、今度はなんの制限もなく作れという課題で、それで作った作品を出したらまた上映してくれるということだったんです。
―― 『SEVEN DRIVES』はどういう作品を目指して作られたんでしょうか?
入江:『OBSESSION』は過剰に喋ってばっかりの映画だったんです。それで前の年にゆうばりで字幕がなくてすごい痛い経験もしていたので(笑)、セリフがなくても構築できる、すごいシンプルなものを作りたいなというのがあったんですね。
―― 『OBSESSION』と『SEVEN DRIVES』は2本ともフィルム製作ですが、フィルムで撮ることにこだわりがあったんでしょうか?
入江:もうそのころにはDVレベルのビデオの編集がデスクトップでできるようになっていたんですよ。だからDVだったら家でもできるんですけど、フィルムは機材がないと編集できないんですよね。それで大学で機材が使える機会にやっておこうと思っていたんです。
―― 『SEVEN DRIVES』が4年のときの課題だと、ゆうばりで上映されたときにはもう大学は卒業されてたんですか?
入江:卒業してました。そのあと半年くらいブラブラして自分で演出とかの仕事をしていてたんですけど、そのときにある制作会社から誘われて、広告ベースの仕事をやりだしたんです。その会社には2年弱いましたね。そのときにも脚本をずっと書いていて、短編は作っていたんですけど、そろそろ短編じゃなくて長編を作りたいなと思って、長編を撮るのは時間的に会社にいては無理だなということで辞めたんです。
90分の映画で主人公が何も成長しなくてもいいんじゃないか
―― 『JAPONICA VIRUS』の準備を始めたのはいつ頃なんですか?
入江:会社を辞めてすぐの頃で、去年(2005年)の夏くらいからですね。
―― そのころ池袋シネマ・ロサで今までの作品がまとめて上映されていますね。
入江:ロサの支配人に長編でこんなのをやりたいんですよとか脚本とかを見せたりしていて、そのときにプロデューサーの直井(卓俊=『JAPONICA VIRUS』プロデューサー)さんという人に出会ったりして企画が進んでいったです。
―― 『JAPONICA VIRUS』は「どんな映画?」と聞かれたときにパッと説明できないような、不思議な感覚の作品となっていますが、どんな作品を作ろうとしていたんでしょうか?
入江:やっぱり中学生の頃に観ていたような『ターミネーター2』とか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか、ああいう映画が好きなのと、それから『仁義なき戦い』(1973年:深作欣二監督)のような、東映とかのかつてのプログラムピクチャーがすごく好きだったんですね。そういうのを自分が浪人しているときにずっと観ていたんですけど、そういう好きだったものを90分なり120分なりの中にとりあえず全部入れようと。本来、映画にはある程度一本通ったものが必要なんでしょうけど、それが破綻してもとりあえず良しとして、とりあえずぶち込んでやろうっていう(笑)。そういう意味ではひじょうにメチャクチャな映画だと思うんですけど。
―― 世界中で伝染病が蔓延するというのはSF的な設定ですね。
入江:あれはジョン・カーペンターとか(ジョージ・A・)ロメロとかの、ああいう世界がやりたいなと思っていて、その入口にやっと立ったかなくらいの感じなんですけど(笑)。
―― ああ、ロメロの『ゾンビ』(1978年)とかの終末感みたいな。
入江:うん、そうですね。終末感っていうのは蝕まれて育った世代ではあるので。
―― 主人公の陽一郎はあらゆることに対して他人事ですよね。仕事や恋人、実家の家族との関係もそうだし、日本や世界レベルでとんでもないことになっているのに、それに対しても他人事みたいな、その距離感が面白かったです。
入江:主体的に世界と関わっていくキャラクターじゃないんですよね。何かというと「保留だよ」ってセリフを言わせているんですけど、面倒くさいことはとりあえず後回しにできるんだったら後回しにしたい、問題に直面するとひたすら逃げる方法だけを考えるっていうキャラクターにしたかったんです。主人公が何かを乗り越えて、弁証法的に次の世界に向かうというのとは全然違うキャラクターにしたいというのはあったんです。
―― 今って、テレビやニュースで世界情勢とかを見てもそれを「直面している現実」と捉えられないみたいなところがあると思うんです。私自身そうなんですけど、陽一郎はその現代の雰囲気を象徴的に現しているような感じがしました。
入江:それはありますね、自分の実感としてそうだろうなって。1960年代とか昔の人は、もしかしたら世界と自分との距離がものすごく近くて、自分が世界を変えられるっていう意識があったのかもしれないですけど、今はほとんどそれがないですからね。テレビとかインターネットから流れてくる情報と自分がちょっと切れている感覚はありますよね。
―― 世界が変えられないっていうのは、いわゆるハリウッド映画のようなキャラクターとは逆ですよね。たとえば『ターミネーター』なんかはほんとに主人公が世界の歴史を変えちゃいますし。
入江:そうですね。だからハリウッド映画のキャラクターみたいな力強さって憧れるところもあるんですけどね。
―― それから『JAPONICA VIRUS』はロードムービーでもありますね。
入江:もともとロードムービーが好きなんですよ。(ヴィム・)ヴェンダースの『都会のアリス』(1973年)とか、ロードムービーの移動する感覚がすごく好きで、それは“何かから逃げていく”ということにもすごくふさわしい手法だと思うし、あと、車が映画の中に出てくるのが好きなので、それも自分がやりたいと思ったもののひとつではあるんです。
―― ただ普通のロードムービーと違うのが、主人公たちが旅をしても何も成長していない(笑)。
入江:何も達成しない(笑)。90分の映画で何も成長しなくてもいいんじゃないかっていう。サム・ペキンパーの『ガルシアの首』(1974年)に似ているねって言われたことがあって、それは主人公が首を捜しにいくだけで何も成長はしないんですよね。ただ巻き込まれて右往左往しているだけっていう、その全然成長しない感じが気持ちいいなと思って。また斉藤陽一郎さんという人がそういうのを演じるのにすごいふさわしい俳優さんで、なんかいいんですよね。
―― 斉藤陽一郎さんを主演に決められた理由はなんだったんでしょう?
入江:その前にぼくが冨永(昌敬)さんの『パビリオン山椒魚』(2006年)に演出部として参加していて、斉藤さんとかと飲んだんですよ。そのときに「映画作るんですよ」って言ったら「俺も出してよ」って言うんで、「じゃあ」ってお願いしたのが主人公だったという(笑)。
―― 役名が「陽一郎」と斉藤さんの名前と同じですが、最初から斉藤さんが演じるのを想定していたわけではないんですか?
入江:これは偶然なんですよ。シナリオを書いて、誰にしようかなと迷っているうちにたまたま斉藤陽一郎さんとそういう話になって、斉藤さんに脚本を送るときに「あっ、同じだ」と思ったんです。でも、まあいいかと思って脚本を送ったら、あとで斉藤さんから「嫌がらせかと思った」って言われたんですけど(笑)。前から斉藤さんのことは知ってはいたんですけど、当て書きしたわけではないんですよね。
―― バックパッカー役の杉山彦々さんもすごく印象に残りました。
入江:役割として世界と登場人物のつなぎ目というか、ジョイント部分にはしたかったんですね。それからA面とB面があるように、裏返るキャラクターを作りたかった。メインの主人公ふたりがずっと同じトーンのキャラクターなんで、もっと裏表がありそうなキャラクターにしたかったんです。杉山さんに関しては当て書きに近いですね。
―― ハリウッド映画にあるみたいに、隠された真実を知るジャーナリストみたいな存在かと思うと、実は単なるずるい人みたいなところが面白かったです。
入江:イタリアとか、あとはユーゴスラビアの(エミール・)クストリッツァとか、ああいう映画に出てくるキャラクターにこういうどっちつかずな胡散臭い人がいるんで、そういう風にしたかったんです。インチキ臭い感じで、また杉山さんがそういうのをやらせるとうまいんですよ。日本でこれからインチキ臭い役をやらせたら杉山さん以外いないんじゃないかと個人的には思っているんです(笑)。
やる気のない人間が過酷な状況で必死になっている姿を撮りたい
―― 『JAPONICA VIRUS』のロケ場所は全部で何ヶ所くらいになるんでしょう?
入江:前半は東京都内です。それからまず秩父の方に行ってですね、陽一郎の実家の辺りはぼくの実家のある埼玉の深谷です。あとは新潟で雪のシーンを撮っていて、4ヶ所ですね。どの場所も、無機質な感じというか、なるべく叙情的なものを感じさせないような場所を選んだんですよ。
―― 陽一郎の実家の辺りでは、田舎の持っている負の部分みたいなのが出ていますよね。
入江:それを地元でやりましたからね。100人以上エキストラの人が出てくれているんですけど、良く協力してくれたなって(笑)。ロメロの映画とかでも、善良な市民だったのが「お前はゾンビに噛まれただろ」みたいなことで、みんなその人を攻撃しだしたり、豹変するじゃないですか。
―― 普段のコミュニケーションが密な分、異質なものが現われると一斉に排除に向かうような感じですね。
入江:そういうのがすごく生々しいと思うんですね。時間の都合でなくなったんですけど、シナリオを書いているときには『七人の侍』(1954年/黒澤明監督)みたいに、もっと閉じたコミュニティを主人公のふたりが通過するって案もあったんです。
―― そして終盤は、一面雪の中でのロケですね。
入江:やる気のない人間が過酷な状況で必死になっている姿を最後に持ってきたいっていうのがあったんです。そうすると物理的に大変なところに置くしかないなって思って。暑いところより寒いところが好きっていうのもあるんですけど、とりあえず足はもつれるし歩くのも大変みたいな大変な状況に置きたいっていうのがあって。あと、浪人のときに『網走番外地』(1965年/石井輝男監督)を観ていて、高倉健が雪の中を逃げていきますよね。あれが好きだったんです。
ロケをやったところは4メーターくらい雪が積もっているんですよ。そこを登って、スタッフが雪を削って階段を作って、で、普通に歩くと腰くらいまで埋まっちゃうんで、歩くところは板で踏み固めて。斉藤陽一郎さんが走って追いかけていますけど、実際は歩けないんですよね。
―― 雪のシーンの撮影はどれくらい時間をかけたんですか?
入江:5日間くらいですね。これまで『JAPONICA VIRUS』のために短編を何本か作っていたんですよ。それで『行路I』(2005年)という作品で雪の撮影を1回やっていて、2日間で撮ろうと思ったら半分も取り終わらなかったという痛い経験をしていたので、日数はたくさん取ったんです。『行路I』のときは車が1台動かなくなって置いていくとかかなり危険な状況になっていたこともあったんで(笑)。それでも5日間でギリギリでしたね。
―― 気温は何度くらいなんですか?
入江:気温はわからないですけど、服とか放置しておくと凍りましたね(笑)。雪が冷たいとかじゃなくて、痛いとかヒリヒリするという感じなんです。斉藤陽一郎さんも鳥栖(なおこ=倫子役)さんも、そうとう痛そうでしたよ。
―― そして雪のシーンに続いては衝撃的なラストですね。
入江:人によっては「何も起きてないじゃないか」って言われることもあるんですよね(笑)。どういう受け取り方をされてもいいようにって考えてやったところはあります。やっぱり終末感のある映画が好きなんで、そういう映画って、その先にまだ続いていくだろうって広がりを感じさせるような映画が多いですよね。この作品でもそれがやりたいなと思っていて、あわよくば潤沢な予算で次回作を作りたいなっていうのもありつつ(笑)。いろんな要素を入れたばっかりに、どう収まりをつけるかっていうところでああいう形になったというところですね。
―― 『JAPONICA VIRUS』はいろいろな要素を詰め込んだ作品になっていますが、今後もこういう路線で作品を作られるんでしょうか?
入江:今回、この規模では登場人物が多いですし、エキストラも多いし、かなり広いスケールでやっちゃったんで、今度はもっとちっちゃな規模でもっと閉塞的な状況の中の作品をやりたいなと思っているんです。ぼくは『OBSESSION』をやったあとに『SEVEN DRIVES』というシンプルなものをやりたくなったように、割と飽きっぽいんですよね。だから、今度はハリウッド映画みたいにしっかりとしたドラマツルギーを持った構成をやらねばと思っているんです。やりたいと思いつついつまで経ってもできないんですけど(笑)。
―― では最後に、『JAPONICA VIRUS』をどういう風に観て欲しいかをお願いします。
入江:非常にメチャクチャな映画なんですけど、広い心で観て欲しいですね(笑)。ある有名な映画監督が「映画は博打みたいなものだから、面白かったら当たったと思えばいい、つまんなかったら外れたと思えばいい」みたいなことを言っていたと思うんですけど、それくらい広い心で観ていただけたらいいと思います。
(2006年8月21日/バイオタイドにて収録)
JAPONICA VIRUS ジャポニカ・ウイルス
9月30日(土)、池袋シネマ・ロサにてレイトショー ほか全国順次公開
監督:入江悠
出演:斉藤陽一郎、鳥栖なおこ、杉山彦々、藤井樹、戸田昌宏、冨永昌敬 ほか
詳しい作品情報はこちら!
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