『世界のどこにでもある、場所』大森一樹監督インタビュー
警察に追われることになった投資アナリストの青年が迷い込んだのは、山の上にある遊園地と動物園。そこには、奇妙なマーチングバンドや、迷彩服の一団がいた――。
日本を代表する映画監督・大森一樹監督が『世界のどこにでもある、場所』で題材に選んだのは“心の病”。「精神科クリニックの患者たちが、遊園地と動物園でデイケアをおこなう」という設定のもと、限定された空間で23人もの登場人物が繰り広げる群集劇が誕生しました。笑いあり涙あり、ミステリーにアクション、ラブストーリーまで、娯楽作品の要素がふんだんに盛り込まれた『世界のどこにでもある、場所』は、同時に現代の日本社会が抱えるさまざまな問題を鋭く描き出しています。
実際の遊園地・動物園でロケをおこない、キャストは劇団スーパー・エキセントリック・シアターの劇団員を起用。監督自身が「ゲリラ的」と表現するスタイルで作られた『世界のどこにでもある、場所』は、内容だけでなく、その映画のあり方自体も日本映画の中で特異なものとなっています。
いま、大森監督が「ゲリラ的」に映画を作る意義とは? お話をうかがいました。
大森一樹(おおもり・かずき)監督プロフィール
1952年生まれ、大阪府出身。高校時代より自主映画を制作。京都府立医科大学在学中の1977年にオリジナル脚本『オレンジロード急行』で城戸賞を受賞し、翌年、同作品のメガホンをとり劇場作品監督デビュー。その後、自らの医大経験をもとにした『ヒポクラテスたち』(1980年)、村上春樹原作『風の歌を聞け』(1981年)、『恋する女たち』(1986年/文化庁優秀映画賞、日本アカデミー賞優秀脚本賞・優秀監督賞受賞)、『ボクが病気になったわけ』(1990年)、『ゴジラ vs キングギドラ』(1991年)、『T.R.Y.』(2003年)など、幅広いジャンルで作品を送り出し続けている。人気お笑いコンビ・オリエンタルラジオを主演に迎えた最新作『津軽百年食堂』が2011年4月2日公開。
2005年より大阪芸術大学映像学科教授をつとめる。
「すべてにおいてミニマムな映画で大きな映画に対抗するにはどうしたらいいか」
―― 最初に『世界のどこにでもある、場所』の企画の成り立ちをうかがわせてください。
大森:もともとコンパクトなサイズの映画をやろうとしてて、10年くらい前に関西にある宝塚ファミリーランドが閉園になるというんで(※1)、閉園になったら人がいなくなるだろうから、そこを使って1週間くらいで撮れるものを考えようと始めたんですよ。宝塚ファミリーランドはぼくの家からも近くて小さいときからよく行っていたところで、映画のように動物園と遊園地があるんです。場所はその中だけで、そこに登場人物をいっぱい放り込んでうじゃうじゃ動かしたら面白いものになるんじゃないかと考えて、昔観た『まぼろしの市街戦』(1966年・仏/フィリップ・ド・ブロカ監督)という映画をモチーフにして脚本を書いたんです。ところが「閉園した遊園地を使ってもらっても宣伝にならない」とか、いろいろな理由があって実現しなかったんです。そのままずっと置いてあったんですけど、2年くらい前に今回の制作会社のADKアーツのプロデューサーがこのホンを読んで、ちょうどADKアーツが映画をやろうとしていて、このホンならコンパクトに低予算でできるというのがあってね(笑)。ADKアーツがやっている「にほんのうたプロジェクト」と絡めたかたちでやりませんかということで、そこから動き出しました。それで関東一円で撮影場所を探して、桐生の動物園と遊園地(桐生が丘動物園・遊園地)が見つかって、前に書いたホンを桐生の動物園の現状に合わせたり、「にほんのうた」を入れたり、10年間の間にいろいろな事件とかもあったので人物像も入れ替えたりして、書き直したんです。
―― もともとの宝塚ファミリーランドを舞台にして映画を作ろうという企画は、監督が発案されたのでしょうか?
大森:いや、宝塚の地元に宝塚シネ・ピピアという映画館があって、そこから話があったんです。実は、その映画館がオープンするときに100万円で短編を作っているんです(※2)。オールナイトの上映会にいろいろな事件に巻き込まれた人たちが10何人か集まってという、今度の映画と似たような話でね(笑)。それがけっこううまく行ったので、ちょっとスケールアップしたものをみたいなところで始まったんですよね。
―― 宝塚ファミリーランドという特定の場所を想定して書かれた脚本ですと、ほかのロケ地で成立させるのは難しかったのではないでしょうか?
『世界のどこにでもある、場所』より。山の上の動物園と遊園地にさまざまな人々が集まってくる……
大森:こういうかたちでできるとは思わなかったですね。なにが大事かというと動物園と遊園地が一緒になっているということで、ファミリーランドでなくてもよかったんですけど、そういうシチュエーションというのはなかなかないんですよ。この10年くらいは閉園する遊園地がけっこうあったんですよね。関東だとディズニーランド、関西ならUSJみたいな大きなところにお客さんを取られて、町の遊園地がどんどん閉園していく時代だったんかな。そのたんびに「ここでできないかな」というので見にいったりはしていたんですけどね(笑)。そのうちに、閉園になったところはすぐ(施設を)潰しちゃうし、動物も行き先が決っていて閉園した次の日にはいなくなってしまうということもわかってきて、なかなかあうところがなくてね。今回は、こう言っちゃ悪いけど寂れた感じのするところを探してさ(笑)、桐生の遊園地は入場無料で人もそんなに多くないし「毎日使ってもらってもいいですよ」というので、実際に見に行って「ここならできるな」と。
―― 遊園地と動物園が一緒になった場所の魅力はどんなところでしょうか?
大森:ご覧になってわかると思うんですけど、動くアトラクションがあったり、動物がいて動いているというのは、なんか“映画的”なんですよね。そういう面白い場所でないとミニマムな映画はできない。大きい映画だとオープンセットを建てることもできるし、お金さえあれば営業保障して遊園地を借り切るということもできるんですよ。でも、そういうところでお金を使うのではなくて、あくまでゲリラ的な映画の作り方というか、日本映画がどんどん大きくなって何百スクリーンでやるような映画が出ている中で「東京と大阪2館くらいでやるような映画があってもいいんじゃないか」ということで始まったんですよね。あくまで低予算でやってみたいと。それが映画の性格を決めているところはあるよね。
―― 場所が限定されているのに加えて、登場人物がひじょうに多いのもこの作品の大きな特色ですね。
大森:それも、大きな映画に対抗するのにどうやればいいかと(笑)。自分で脚本を書いているわけですから、登場人物を作るのはタダですからね。いろいろなキャラクターを考えたり、ああだこうだやっていく分には全然製作費が要らないから。まあ、ほんとは脚本代もっと欲しいですけど(笑)。とにかく、すべてにおいてミニマムな映画で大きな映画に対抗するにはどうしたらいいかということで、登場人物も普通の映画では考えられないような数を出すことで対抗しようとしているんですよね。
―― これだけの人物が出る脚本を書いてみていかがでしたか?
大森:書いているうちにどんどん増えてきて「あんまり多すぎるんじゃないか」と言われたことはあるんですけどね(笑)。でも「映画にしたら大丈夫です」と。深作欣二監督の『バトル・ロワイアル』(2000年/3D版2010年)なんて40何人出てきているんですから(笑)。大勢の人を使いわけるのは、監督としては面白いですね。深作さんはちゃんと40何人を描きわけているから、やっぱり大した腕やなあと(笑)。そういう意味では、職業監督、プロの監督としての腕の見せ所みたいな気持ちはありましたね。
- ※1:2002年に閉園が発表され、翌2003年4月に閉園
- ※2:1999年制作『明るくなるまでこの恋を』。総製作費100万円で制作された23分の短編映画。大阪のミニシアター、シネ・ヌーヴォを使って一晩で撮影され、宝塚シネ・ピピアのオープン時に大森監督の旧作とともに上映された
「みんな“この人はほんとにおかしいんじゃないか?”って思うくらいの迫力はありますよね(笑)」
―― 劇団スーパー・エキセントリック・シアター(以下、SET)の方々をキャストに起用するのは、どのような経緯で決まったのでしょうか?
大森:桐生で10日間で撮影しようとなったときに、スケジュールが10日間空いている人を連れてこないといけないんですよね。でも、23人もそういう人を集めるとなると至難の業ですし、こういう言い方はなんですけど、10日間桐生に来られる人となるとあまり有名ではない俳優さんになっていくであろうと。だったら公演中でない劇団でひとまとめにできないかと思って、いくつかの劇団を候補に考えたんです。その中で、SETはキャストを老若男女を取り揃えているので、SETに頼んでみようとなったんです。SETに話をしたら「こういうのを劇団でやるのは面白いと思う」と言ってくれて、そこで成立したんですね。それで「俳優さんを全部見せてください」ということで、彼らの稽古場に行って、全員呼んでもらって「この役をやってみてください」「じゃあこっちをやってください」と、いろいろやりながら決めていったんです。
―― 役を決められるときに、俳優さん方から立候補のように「この役をやりたい」ということはありましたか?
大森:ありましたね。それと、劇団の制作をやっているスタッフからかなりアドバイスがありました。「この役は彼がいいと思います」というのはあって、それはずいぶんお任せしましたね。最初に役を決めるために3回くらいオーディションをやったんですけど、1回終わったあとで「彼がこの役をやりたいと言っているから1回やらせてみてください」というのもありましたし。
―― 俳優さんが決まった時点で、俳優さんに合わせて脚本を変えた部分はあるのでしょうか?
大森:直さなかったですね。あくまでもホンに役者を合わせてもらうということで、ホンを変えるということはなかったです。それで、最後の老人ふたりだけは手の内にいないので、ゲストで佐原健二さんと水野久美さんにお願いしようとなって、それで全部埋まったという感じですね。
―― 佐原さんと水野さんは、往年の東宝特撮によくご出演になっていたおふたりですね。それはキャスティングの際に意識されていたのですか?
大森:それはあったよね、ちょっと遊んでみようと(笑)。老人役といって思い浮かぶのは佐原さんや水野さんだったし、やっぱり自分が東宝の『ゴジラ』シリーズをやっているから、出てくれそうな感じだったことはあったね。狙い通り、頼んだら快諾していただけましてね。「出ますよ」ということで来ていただいたんです。
―― 物語の中心人物となる田口役に熊倉功さんを起用される決め手となったのはどんな部分ですか?
『世界のどこにでもある、場所』より。熊倉功さん演じる青年・田口(中央)
大森:なかなかあの役をやる人がいなくてね。熊倉くんはオーディションの最初のほうに1回くらいあの役をやってたんかな? 誰がやってもうまくいかなくて「熊倉くんでいいか」っていう感じで決めたんです。それで撮影の途中に気づいたんだけど、彼は若いころの真田広之くんによく似ててさ(笑)。真田くんとは『継承盃』(1992年)と『緊急呼出し エマージェンシー・コール』(1995年)と2回やっていて、熊倉くんを見て「どっかで見たことあるな」と思っていたら、撮影の途中で「あ、真田くんか!」って気づいてね。そう思ったとたん「若いころの真田くんを考えてやればいいのか」って、自分の中ですごくわかりやすくなりましたよ。話を聞いてみたら、彼ももともとスタントマン志望でアクションチームにいたんだって。やっぱり、そういう運動神経と顔つきが似てくるんかなって(笑)。結局「主役らしい顔なんだな」というところに落ち着きましたね。
―― 田口のアクションシーンもありましたが、それは熊倉さんに合わせたわけではないんですよね?
大森:そうではないんだけど、あそこの撮影のとき妙に張り切りだしたよ、彼は(笑)。なんかスタント指導に来た人が知っている人だったみたいで「ぼくの師匠だった人が来ましてね!」言うて感激していました(笑)。吹き替えを使おうとも思ったんやけど、本人がやってくれて、うまかったですよ。走ったら速いし、飛び降りるところも様になっているし、そういうところはほんと真田くんとそっくりだったですね。
―― 田口役のほかに、キャスティングで難航した役はありますか?
大森:ノイローゼの教師をやった大関(真)くんと新聞記者の大竹(浩一)くんを、どっちをどっちにしようかっていうのはあったね。何回もふたり交代交代でやってもらってね。……ぼくらはわからないんですけど、劇団員の中にも先輩後輩があったりライバルがあったり、いろいろあるみたいなんだよね(笑)。「アイツはあの役をやったのに俺はこれかよ」いうのもあったみたいで、それはぼくの耳に届いてはいないんですけど(笑)、制作のほうで調整はしてくれたらしいですね。そういうところは面白かったですね。
―― 監督から見て、この俳優さんは特に役にあっていたなと思う方はいらっしゃいますか?
大森:やっぱり、教師と新聞記者はいろいろやっただけのことはありましたね。それと、コンバット部隊の隊長さん(高橋修さん)は面白かったですね。たぶん、映画を観る人にとってほとんどが履歴とかを知らない俳優さんですよね。それでこういう内容だから、みんな「この人はほんとにおかしいんじゃないか?」って思うくらいの迫力はありますよね(笑)。その最たるものが隊長さんですね。
「“映画ってこういうことをやってくんじゃないですか?”と問題提起したかった」
―― この作品は心の病が大きな要素となっていて、さらにテロ事件や少年犯罪、医療の問題など、現代の社会で問題となっていることが、かなりストレートなかたちで盛り込まれていますね。
大森:けっこうそれは意識してて、言ってみればこれ見よがしにいっぱい出していますね。我ながら「ここまでやるか」ってくらい出しましたけど、それは実は映画がやることなんだよね。いまの日本の映画はそういうことを避けるのが当たり前のようになってきているのを「ほんとは映画ってこういうことをやってくんじゃないですか?」と問題提起したかったのはありますね。2年くらい前に橋口亮輔監督の『ぐるりのこと。』(※3)っていう映画があって、裁判の絵描きさんの話でいろいろな事件が出てきて、ぼくはすごく面白かったんですよね。絵空事のファンタジーとかの楽しさもあるんだけど、生身のことをやるのが映画の面白いところだということが、ぼくらが映画を観てきて教わった映画の作り方の中にはあったんですよね。それがあまりにも少なすぎる現状の中でやってみたいと。だから、さりげなく入れるんじゃなくて「これでもかこれでもか」って出しているのはありますね(笑)。結局「そういうことが起こっているこの国のいまってなんなの?」というのがありますからね。
―― そういう社会的な問題を描くと、その部分だけがストーリーから浮き上がって見えてしまうこともあると思うのですが、今回の『世界のどこにでもある、場所』では、9・11のテロなどの事件もストーリーの中に自然になじんでいるという印象を受けました。違和感なく描くために意識された部分はあるのでしょうか?
大森:照れずにやったんですよね(笑)。小声で言うとか思わせぶりにやるんじゃなくて、もう最初から「これをやります」と堂々とやるっていう。9・11の飛行機と貿易センタービルなんてね、周りから「写真かなんかでやったほうがいいんじゃないですか」と言われたんだけど、いまはCGでできるんだから見せてしまおうとかね。「面と向かって言っちゃ身も蓋もないもない」とみんな思っているようなことも「身も蓋もなくてもいいじゃないか」と言う、そういう覚悟というか方針が見えるから、観ている人が安心してついていけるんじゃないかと。その点は思い切ってやったのがよかったんだと思いますね。
―― 作品を拝見して、これはすごく怖い映画だなという印象を受けているんです。「こういうお話だな」と思って観ているわけですが、ラストまで観るとそれに対しての疑問が生じてきて「自分が1時間何十分観てきたのは果たしてなんだったんだろう?」という怖さを感じました。
大森:そういうふうに受けとってもらえるとすごくいいと思うんですよ。「いま我々が生きているところ自体が、なにか嘘じゃないか?」というところが根本にありましたよね。だから、おっしゃるとおりで、ほんとは怖い映画だと思うんですよ。自分らの立っている源のところがグラグラと揺らぐということですから。
―― 妄想を抱えた人のほうが、実は物事を正しく見ているんじゃないかという感じがありますね。
大森:そうなんですよね。現実を騙しながら生きていくのと、妄想を妄想として生きていくのと、どっちのほうがまともなんだっていうのがあるよね。現実に起っていることに向きあわないほうが妄想を信じるよりもよっぽど嘘っぽいんじゃないかなと、そういうことなんですよね。
―― 最後に、映画をご覧になる方にどういうふうに『世界のどこにでもある、場所』を受けとっていただきたいかをお願いします。
大森:いま、映画を観るときに「主人公に感情移入できた」とか「できなかった」ということが判断基準になってますよね。もちろん、そういう映画もあっていいんだけど、この映画は、誰に感情移入できるかできないかっていうよりも、自分を客席に置いたまま自分の目で観ていただけると、また違った映画の楽しみ方ができるんじゃないかなと思ってるんです。いま「日本映画がつまらない」とか「なんでこんな映画があたるの?」とか(笑)、いろいろ問題はあると思うんですけど、一番の問題は映画の幅が狭くなってきていることだと思うんです。昔のマンガが原作だとか人気ある人が主演だとか、そういう映画はあっていいわけで否定はしないですけど、それがすべてではないし、映画ってもっともっといろいろな楽しみ方があって、考えることもあるし、多様性があるものだということを、もう一度信じていただきたいなと思うんです。
この作品の終わり方を「腑に落ちない」と言う人もいるんだけど、それが映画なんでね。テレビでああいう終わり方したら、それは居心地悪いし、夜寝られないよね(笑)。でも、映画というのは、観終わって暗闇から町に出たときに「あれはなんだったんだろう」って考えるから映画だし、そこはテレビと違うところだと思うんで、ぼくとしては“映画らしい”終わり方にしてみたいというのがあったんです。すごく映画らしく終わっていると思うんで、そこを「腑に落ちない」で終わらせずにね(笑)、考えていただけたらいいですね。
- ※3:2008年公開。リリー・フランキーさんが演じる主人公・カナオが法廷画家という設定で、連続少女誘拐殺人事件や地下鉄サリン事件など、実際にあったさまざまな事件が劇中で描かれている
(2011年2月1日/ADKアーツにて収録)
世界のどこにでもある、場所
- 脚本・監督:大森一樹
- 出演:熊倉功 丸山優子 佐原健二 水野久美 ほか
2011年2月26日(土)よりシネマート新宿 ヒューマントラストシネマ渋谷 シネマスコーレ シネマまえばし ほか全国順次ロードショー