『見えないほどの遠くの空を』榎本憲男監督インタビュー
大学で映画研究会に所属する青年・賢。彼が卒業前の最後の作品として監督していた映画は、主演女優の突然の死によって、ラストのワンショットを残したまま未完成に終わる。それから1年後、主演女優そっくりの女性と街で偶然に出会った賢は、彼女を代役として映画を完成させようとする――。
劇場支配人として映画界でのキャリアをスタートさせ、番組編成、プロデューサー、そして脚本家と、さまざまなかたちで映画に携わってきた榎本憲男監督が、初めてメガホンをとった作品が『見えないほどの遠くの空を』です。
美しい映像で綴られた“映画を完成させようとする青年”の物語は、まっすぐな青春映画であると同時に“映画”という媒体の持つ意味を問いかける作品のようにも感じられます。
また、榎本監督はツイッターを用いて映画制作のノウハウを公開するなど、現在の日本映画の状況に一石を投じるような意欲的な活動をおこなっています。
榎本監督はいまなぜ映画を撮り、なにを意図するのか? お話をうかがいました。
榎本憲男(えのもと・のりお)監督プロフィール
1959年生まれ、和歌山県出身。大学卒業後の1987年、銀座テアトル西友(現・銀座テアトルシネマ)オープニングスタッフとなり、翌年より同劇場支配人。以降、東京テアトルの社員としてテアトル新宿支配人、番組編成、プロデューサーと映画界でのキャリアを重ねる。また、劇場支配人をつとめつつシナリオを学び1991年にATG脚本賞特別奨励賞を受賞。EN名義で脚本家としても活動する。2010年、テアトル東京退職。
プロデュース作に『身も心も』(1997年/荒井晴彦監督)、『1980』(2003年/ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督)、『犬猫』(2004年/井口奈己監督)、『歓待』(コ・エグゼクティブ・プロデューサー/2010年/深田晃司監督)など。脚本作に『ワイルド・フラワーズ』(2004年/小松隆志監督)、『オーバードライブ』(2004年/筒井武文監督)、『アイランドタイムズ』(2007年/深川栄洋監督)。
「映画を好きだったら1度は映画を撮ってみたい」
「ぼくらが映画を観はじめたころは、映画を撮る人ってスペシャルな人で、映画会社に入って現場で映画づくりの経験を積んだ人間だけが撮れるという時代がありました。そのあとに、そういったシステムが崩れて“ぴあフィルムフェスティバル”のようなコンペをきっかけにしたり、自主映画からプロになる人が出てきました。塚本晋也さんとかがそうですよね(※1)。ぼくはそういった時期に“自分には映画を撮るスペシャルな才能はなくて、でも映画は好きだから映画に関わって生きていければいいな”と思って、映画会社に就職をしたわけです。無難で賢明な道を選んだということですよね(笑)。ところが、やっぱり映画を好きだったら1度は映画を撮ってみたいと。ぼくはサラリーマンのときにシナリオの仕事もしていたので、プロが書いたシナリオも批評的に見ることもあって、なんなら自分で撮ってみたいという気持ちが段々と芽生えてきたということです」
『見えないほどの遠くの空を』で初めてメガホンをとるに至った理由をこう語る榎本憲男監督。そして、近年の撮影機材を巡る状況の変化がその気持ちを後押ししたといいます。
「デジタル革命とでもいうべきものがあって、カメラがどんどん優秀になって、しかも安くなっている。昔は8ミリで撮った映像とかビデオカメラで撮った映像って、やっぱりプロとは比べ物にならなくて、映った瞬間にアマチュアの画面とプロの画面の違いがわかった。ところが、いまはプロの現場でも10何万円のデジタルスチルカメラの動画モードで撮るということも起きてきている(※2)。そうなってくると、一瞬では見分けはつかない。で、プロがプロであることの特権的に確立されている立場というのは何だろう? というところに疑問を持つわけですね。だから、プロとアマの高低差というのは、絶壁なのか、なだらかな坂で繋がっているのか? それはたぶん絶壁ではないだろうと踏んだんですね。ある意味、決定的だったのは、RED ONE(※3)というカメラが使えるのなら撮りたいって思っていたときに、RED ONEを個人で所有している人(※4)を知っている奴が近くにいて、シナリオを送ったら“やる”って言ったので“じゃあやるかな”って(笑)。こういった気持ちの流れがひとつですね」
榎本監督は、映画学校で講師をつとめ、映画界を志す学生たちの指導もおこなっています。その経験も、自身でメガホンをとるもうひとつの理由となっているそうです。
『見えないほどの遠くの空を』より。森岡龍さん演じる主人公・賢は映画『ここにいるだけ』を完成させようとする
「学校でストーリーを教えていると、学生がよく『見えないほどの遠くの空を』のような設定のストーリーを書いてくる(笑)。仲間がいて、仲間のひとりが死んで、その仲間の死をみんなが悼んで、ドヨーンとして終わるっていうようなストーリーをよく書いてくるんです。そういうストーリーには当然ダメ出しする。“単に感性や気分だけでストーリーを書くな。ストーリーって観客のテンションを惹き付けることを意識しながら展開しなきゃいけないのに、これは転がってねえぞ”とぼくは説明するんですけど、これがなかなか伝わらない。そのとき“たとえば俺だったらどうするか”と自問してメモを取った、これがストーリーの最も初期段階の原型です。それと、低予算だから大きな仕掛けのあるものはできないわけですよね(笑)。はっきり言って、低予算だからできないことだらけ。たとえばピストルとかは出せない。血のりなんかもやばいくらいの低予算なわけです。そうなってくると、人間関係だけで映画を作らなきゃならない。けれど、本当は、人間関係だけを描いているかのように見えて、けれどそれだけではない、その向こうにある世界にむけて物語をグイっと広げるような展開をしなければならない。じゃあ、それをやってみようかじゃないかということで、映画を撮ろうと決心したということかな」
主人公の青年・賢を演じているのは森岡龍さん。『グミ・チョコレート・パイン』(2007年/ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督)『色即ぜねれいしょん』(2008年/田口トモロヲ監督)などで好演を見せる森岡さんは、多摩美術大学の映画研究会に所属し、PFF入選経験も持つ、若き映画監督でもあります。『見えないほどの遠くの空を』にとって、森岡さんの存在は大きかったようです。
「シナリオを書く前から、主役は森岡くんと決めていたんですよ。本人には承諾を得てなかったんだけど(笑)。勝手に“森岡くんで行くぞ”って決めていたので、学生が主役のストーリーになっていったんですね」
森岡さんを主演に起用する決め手となったのは「ものを作ってる人間独特のオーラがある」こと。そして『見えないほどの遠くの空を』のキャストには、バンド“黒猫チェルシー”での音楽活動もおこない東京造形大学映画研究会に所属する渡辺大知さん、大阪芸術大学映研OBである前野朋哉さん、成城大学映研OBの橋本一郎さん、大阪芸大映研OBの中村無何有さんと、森岡さん以外も映画制作経験を持つキャストが揃っています。
「今回のキャストは、ほとんど森岡くんのネットワークから決めていったんです。やっぱり森岡くんの周りはそういう人間が集まってきやすい。だから、森岡くんにはほんとに感謝していますね」
- ※1:塚本晋也監督は1988年に『電柱小僧の冒険』でぴあフィルムフェスティバルグランプリを獲得。翌年に『鉄男』が一般公開されプロの映画監督としてデビューしている
- ※2:デジタル一眼レフカメラの動画機能で撮影された劇場公開作品に『歓待』(2010年/深田晃司監督)、『ユリ子のアロマ』(2010年/吉田浩太監督)(以上2作品はキヤノンEOS7Dを使用)、『結び目』(2010年/小沼雄一監督)(ニコンD90使用)などがある
- ※3:アメリカのレッドデジタルシネマカメラカンパニー社が開発・販売するデジタルムービーカメラ。ハイビジョンカメラを上回る高画質と35mmフィルムカメラに近い操作感を持ち、かつ200万円以下という低価格を実現している。現在、海外でも日本でも多くの映像作品の撮影に使われている
- ※4:『見えないほどの遠くの空を』で撮影監督をつとめた古屋幸一氏。『見えないほどの遠くの空を』では、RED ONEカメラ以外にも古屋氏個人所有の機材が多数使われている
「悩んだときに当てにできるのは、自分の観てきた映画の記憶」
『見えないほどの遠くの空を』は、映画研究会の学生たちが“映画を作る”物語となっています。“映画を作る映画”という題材を選んだ理由はなんだったのでしょうか?
「それも、学生がよく書くストーリーだというのがひとつの理由です(笑)。そこから、ラストショットだけを撮りそこなった映画を完成させる話というものを思いついて、それは物語を転がす大きなフックになるなと思ったんですね。前半は、ヒッチコックの『めまい』(1958年・米)が元ネタなんですよ。映像の緊密さのレベルが違うのでそういうふうには見えないでしょうけども(笑)。要するに、惚れた女がいて、惚れた女とそっくりな女を見つけて、その女を惚れた女のように見立てながらなにかをしようとする主人公だから。そういう物語だというところにおいては『めまい』のパクりなんです(笑)。それから、森岡くんを主役にしようと考えたときに、映研の話にするというのは入っていたかもしれないですね。森岡主演だから映研の話になっているところはあるかもしれない」
『見えないほどの遠くの空を』で印象に残るのが、作品全体に漂う、現実と幕を1枚へだてたような独特の空気です。映画の冒頭、公園で撮影の準備をする学生たちがカメラに映し出されたときから、観客は現実とは違った世界へと引き込まれていきます。
「特にあの公園は、どこかで時空が歪んでいるという設定にしているんです。冒頭のシーンはクレーンを使って撮っていますけど、後半のシーンなんかでは歩いている方向とか距離感なんかも、わざと微妙にずらしている。合理的でない、奇妙な感じになっているでしょう(笑)。だから、この作品は学生が映画を作るのをドキュメントする映画ではなくて、どこかでファンタジー要素が混入している作品であるということは言えると思います」
『見えないほどの遠くの空を』より。莉沙(演:岡本奈月)と光浦(演:渡辺大知)は公園の木の下でラストシーンを演じる
現在、特にテレビドラマなどでは、とにかくセリフに頼って視聴者の感情を動かそうとする作品も見受けられます。しかし『見えないほどの遠くの空を』は、あくまで映像によって感情を動かすことに徹しているように思えます。それは、まさに“映画らしい”作り方なのではないでしょうか。
「そう言ってもらうとすごく嬉しいですね。ぼくはストーリーはいままでも書いてきたけど、監督するのは初めてだから、ストーリーをどう映像化していくかというところですごく悩みました。悩んだときに頼りになるのは、自分の観てきた映画の記憶ですよね。それはテレビではない。セリフ立てはむしろ映画よりもテレビに近くて、1970年代くらいのテレビドラマに近いセリフの言わせ方にしている気がします。ただ、映像そのものについては映画ですね。自分の映画的な体験を引っ張り出してきているんです」
ひとつの例を挙げると、賢と後輩が校舎から歩いて来るシーンは、黒沢清監督の『アカルイミライ』(2003年)の1シーンから思いついたシーンだとのこと。ほかにも過去の作品をヒントにしたシーンはあるそうで、榎本監督は「盗作に次ぐ盗作の連続です(笑)」と冗談めかして語ります。
また、『見えないほどの遠くの空を』の映像で印象に残る点がもうひとつ。“映画を作る学生たち”をとらえているはずのカメラは、ときとして作品の中で学生たちが撮影する劇中映画『ここにいるだけ』のカメラの視点と重なり、映画の中と外の境界を曖昧にしているように思えます。
「時空が歪むように、映画内のカメラの映像と、登場人物の視点と、観客の視点が、ゴチャ混ぜになっているんです。わかりやすくするなら、画面にフレーミングして“REC”って文字を入れて“ここはカメラの映像ですよ”ってやればいいんですよね(笑)。だけど、あえてそれをやっていない。そういった区分けをしないでゴチャ混ぜにしたほうが面白いんじゃないかという判断をしている。本来、映画のショットというのは誰の視点であるかを明確にしなきゃいけないという原則もありつつも、主観と客観の間で揺れているショットであるというのが映画のショットであると、ぼくは考えているんです。ここは主観的なショット、ここは客観的なショットと峻別するだけでは映画というのは堅苦しくなってつまらないので、シャッフルするほうがより映画的ではないかと」
そして、映画をラストまで観たときに『見えないほどの遠くの空を』がひとりの青年の成長・再生の物語であること、そしてそこに“映画の持つ力”が存在することを強く感じさせられます。
「基本的に物語というのはそうですよね。変化する、回復する、成長する。シナリオの世界では“キャラクター・アーク(character arc)”と言いますけど、ハリウッドではそれがない映画はダメだということにはなっています。でも、ない映画もありますよ。たとえばウディ・アレンの映画は主人公が変化しないものが多い。逆に周りが変化する話なんですけどね。でも、『見えないほどの遠くの空を』はやはり基本に忠実に、回復し、変化し、成長するという構造になっています。そして、ほかならぬ“映画”に成長させられるということは、すごく大事なことだと思います」。
『見えないほどの遠くの空を』は、観客に向けて“映画の持つ力”を示す作品になっているのではないでしょうか?
「だといいですね。ヒッチコックは“たかが映画じゃないか”と冗談めかして言ったんですが、それでもぼくの中では映画が特別なものとしてあるんです。ぼくは映画の力をすごく信じてます。だから、映画監督としてのデビュー作は自分の特別なものを題材にしたのかもしれない。それはいま、この質問を受けて発見したことですね」
「どうやって映画館にかけていけばいいのか、戦略的に考えなくてはいけない」
ここ数年、1年で400本を越える作品が公開されている日本映画。その中で、一般劇場で公開されつつも、実はいわゆる“映画会社”の作った“商業映画”ではない作品も少なくありません。『見えないほどの遠くの空を』も、監督自身の表現を借りれば“超低予算自主映画”です。
「資本の成り立ち的には、配給会社がお金を出す、制作会社が出す、ビデオ会社が出す、これは映画業界内資本ですよね。そうじゃなくて、監督が友達とかから引っ張り出すのは非商業映画。もうひとつ、質の成り立ちがある。商業映画ではどこも金を出してくれないような企画を、監督が自分のコネと努力でお金を引っ張ってきて作るのは“自主”映画ですよね。超インディペンデント映画。一方で“このネタだし、主演は誰だし、原作売れてるし”というスペックの中で製作委員会が組成されて、ビデオ会社が何パーセント、どこが何パーセントというかたちで100パーセントに満たして作っていくのが商業映画。こういった大きな分類ができると思う」
しかし、ミニシアターを中心に商業映画と自主映画が同じ劇場で公開されたり、商業映画で活躍する俳優が自主映画にも出演したりと、観客が“商業映画かそうでないか”の違いを意識しなくなってきている現状があるのではないでしょうか?
「商品としての映画の見え方が、商業なのか自主なのか見分けがつきにくくなっているということですよね。たとえば、山本政志監督の『Three☆Points』(2011年)という映画がユーロスペースで公開されていますけど、あれは資金調達からいうと完全に自主映画ですね。それでも、蒼井そらが出てるし、ムラジュン(村上淳)出てるし、渡辺大知も出てる。そういう名のある俳優が出てる。けど、でもさっき話した映画業界内資本はまったく入っていない。そういうことは起こりつつある。これは、加速させるべしというのがぼくの意見」
『見えないほどの遠くの空を』には、その状況を加速させる意図が「あります」と榎本監督は明言します。
「別の定義をすれば、映画館にかかっている映画が商業映画なんですよ。金の集め方がどうのこうのじゃなくて、みんな一緒。だから、どうやって映画館にかけていけばいいのかってことは、戦略的にもうちょっと考えなくちゃいけない」
榎本監督は『見えないほどの遠くの空を』公開を前に、経験に基づく映画制作のノウハウをツイッターで公開しています(※5)。それも、戦略的な試みのひとつだそうです。
「ヒューマントラストシネマで『見えないほどの遠くの空を』がかかるのは、映画の質だけではなくて、自分が東京テアトルという会社にいたということも、ある程度影響していると思うんです。そういった、自分がプロデュースして生きた力というのは、下の人間にも使っていきたいと思っているんですよ。それは明確に意図があります。自分だけがよければいいということではなくて、自分の手の内に関しては、なるべく公開して、まずかった点に関しては直して。そうやって考えていきたいなと思っています。後続が続きやすいようにしたい」
榎本監督は、現在の自主映画を取り巻く状況を、どのような方向に向けていくべきと考えていらっしゃるのでしょうか?
「膨らます。膨らませていって予算規模も上げるかたち。俳優も自主映画俳優って感じじゃなくて、メジャーからも入り乱れるかたちでズブズブにする。ただ、死守しなきゃいけないのは“監督発”ということ。監督がどうしても撮りたいもので、しかもクオリティの高いもので切り込んでいくということだと思います。だから、低予算だからいいってものではない。いま、1本50万円くらいの予算でやっているシリーズもあるんだけど、それは単に制作会社が“安けりゃいい”でやっているだけなんで、あまり興味はないですよね。やっぱり山本政志監督の『Three☆Points』みたいなもののほうに興味があります」
監督のさまざまな意図が込められた作品である『見えないほどの遠くの空を』。映画をご覧になる方にどう受け取っていただきたいかを、最後に尋ねてみました。
「一番難しい質問ですね(笑)。まずは、普通に面白い映画を目指しているので、まずリラックスして観ていただきたいですね。先入観なしで観ていただきたいと思うのと、面白ければ、それを自分の言葉で咀嚼して“面白かった”という以上の言葉を紡ぎだしてほしい。そして、それをあちこちにばらまいてほしいと思います。“どう面白かったか”ということを自分の言葉で語ってほしいと思っています。それが、まず一歩であるから」
- ※5:ツイッターアカウント:@chimumu また、ツイッターの発言をまとめたサイト“togetter”で榎本監督のツイートをテーマごとにまとめて読むことができる。http://togetter.com/id/chimumu
(2011年5月11日/TCC試写室にて収録)
見えないほどの遠くの空を
- 脚本・監督:榎本憲男
- 出演:森岡龍 岡本奈月 渡辺大知 ほか
2011年6月11日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー